■上海のレトロな建築~虹口救火会

虹口区にレトロな消防署がある。
呉淞路と武進路の交差点にある(吴淞路560号)。
虹口救火会」の建物だ。
現在の名称は「上海武警総隊消防第五大隊虹口中隊」。
上海市優秀歴史建築に指定されている。

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新公園2番入口近くにあるミス・ヤンのお宅を訪問するたびに必ずここの前を通る。
そのつど、私はこの消防署と周囲の街並みに思いを馳せる。

「虹口」・・・
ここはかつての共同租界、日本人居留民が大勢住んでいたところ。
消防署の東隣にあったのは「中部日本小学校」で、4階建ての校舎は今も残っている。

当時、虹口に日本人居留民が増えてくるにつれて、呉淞路・海寧路・北四川路一帯には、日本式カフェ・バー・ダンスホール・食堂・小料理屋から、劇場や映画館などが立ち並んでいた。
武進路は戦前“靶子路”といって、ここから北四川路界隈には遊郭・賭博場が軒を連ねていたそうだ。

ディック・ミネの歌に“夢の四馬路(スマロ)か虹口のまちか”とある四馬路は現在の福州路、当時の四馬路は上海一の歓楽街だったとのこと。
さあ四馬路か虹口へ行ってハメをはずそう、といった感じだろうか・・・
その「虹口」もまちの様相が変わりつつある。
つわものどもが夢の跡・・・

面白いブログに出会った。
戦前の上海、当時の在留邦人がどのように過ごしていたかを垣間見ることができる。

戦争中の上海には、ピーク時でおよそ10万人近くの日本人居留民が“虹口”に居住していた。
共同租界、俗に日本租界と呼ばれた“虹口”地区には、日本総領事館・居留民団・日本人クラブ・学校・商店・住宅・病院・公園・娯楽施設・宗教施設もあって、日本国内と変わらぬ生活を送ることができたらしい。
今でも随所に当時の面影が残っている。
租界探索-虹口編(前編)
租界探索-虹口編(後編)
上海の北部虹口;

■李香蘭について
大分以前のことだが、李香蘭その人・山口淑子さんにお会いしたこともあって、劇団四季の「李香蘭」を観賞したことがある。
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台北のタワーレコードで「李香蘭」のDVDを買ってきて観た。
日本のTVドラマ、上戸彩主演。
満州編と上海編の2枚組。
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物語も最後に近づいたシーンで、上海軍政部の高官が彼女に言った言葉;
「流淌著日本人的血,但心還是中國人的心. 免除你的漢奸罪以後,作為一個日本人,請不要忘記養育你的中國」。

敗戦下、上海虹口の日本人収容所にいた李香蘭。
「漢奸罪」として裁かれ銃殺刑に処されるところ、日本人という事が証明され無罪となる。
そんな史実に想いを馳せて虹口を歩くのもいいかもしれない。


上海日本人居留者の研究をされている陳祖恩先生の著書「日本僑民在上海」は非常に興味深く読ませていただいたので以下にメモしておく。

近代上海,经历了从一个传统内贸港埠到华洋杂处的大都市的激烈变化。这一变化的深处,有着许许多多的机缘交汇。

十九世纪中后期开始,随着民族之门的打开,中国人眼中的“东洋人”,从海上不期而至。

“吴淞路的一天”
吴淞路不仅是上海的日本商业街,也是洋溢着日本“土著派”生活风情的场所。1938年5月1日,日本侵占虹口后,日本《每日画报》杂志拍摄了一组题为《吴淞路表情》的摄影特集,给人们留下吴淞路一天的历史画面。

特刊共载有30幅照片,时间从清晨5时起至晚上8时半。
地点则锁定在吴淞路、塘沽路交叉点,附近有虹口三角地菜场和日本人俱乐部。

清晨5时
清寂的街上空无一人,人们依然在沉睡中,只有一条狗在宁静的街上溜达。
7时
黄包车开始出动,乘客大多是去上班的日本人。
内山完造曾描述过日本人在上海乘黄包车的情景:黄包车夫听到呼唤声音后,飞快地向客人跑去,“穿洋服的日本客人一声不响地坐上车。
车夫等待客人指出要去的方向,日本人傲慢地指指朝南的方向。
车夫为了清楚地了解他要去的方向,连续问了三遍,确认后才驮着客人朝南向北四川路走去”。
8时
日本小学生背着长方形牛皮书包向学校走去……
9时
印度人交通巡查站立在交叉路口。
当时,虹口处于公共租界,工部局交通巡查大多由印度人充任。
由于他们都头缠红巾,上海人称其为“红头阿三”。
1937年“八一三”事变后,上海除苏州河以南的租界外均被日军占领,租界成为孤岛。
作为公共租界的虹口地区事实上处于日军控制之下,但租界行政权没有发生变化。因此,印度巡查依然在吴淞路上维持交通秩序,表明了这一特殊历史期间的政治关系。
10时
公共交通车开始频繁地在吴淞路上出现。
当时,白绿二色的英商6路电车经过虹口救火会和工部局隔离医院等,吴淞路成为虹口繁忙的交通要道之一。
10时半
黄包车夫拉着一位日本妇女和她的孩子在吴淞路上行走,特刊称其为“装扮街头色彩的人力车在行走”。
11时
午餐时间,有人急速地向食堂走去。
11时半
三角地菜市场蔬菜店前,虽然还有少数顾客,但日本女店主已解开工作衣,准备下班。
该市场从清晨至正午营业,下午根据工部局要求,必须用水清洁场地。
市场外,刚买完菜的日本妇女在路旁悠闲地谈话。
下午1时
吴淞路上车水马龙,出现了交通堵塞现象。
5时半
日本职业妇女下班回家。
晚上8时
吴淞路又恢复了宁静。
8时半
日本人俱乐部内响起舞曲声。


“三角地菜场”
虹口市场内日本食品种类之多,与日本国内市场无异,难怪住在附近的日本人说:“内地(指日本国内)物品,这里没有不具备的,由于有这样的生活环境,居住在这里的日本人已经忘记了自己在国外。”

在虹口市场经商的日本人大多居住在市场附近的中国里弄房屋里,其中以长崎人居多,不少店主是妇女,也有一些是当时处于日本殖民统治下的台湾同胞和朝鲜人。
他们都是“土著派”的一员,因而对土著派的生活需求有切身的体会和了解。
林徽因把“虹口小菜场”列入上海“百景”之一,她给我们描绘了当年虹口市场的繁华景象:
“鱼,在一只只的筐中,被挤得只想往上跳。虽然跳了上来又是落下去,它们总在从那挤着的一群中不息地跳着,仿佛跳一跳,至少,总可以透了一口气似的。”

“日本的豆腐用绿色的纸一块快包起来,而中国的豆腐和百叶之类也已排满在一块块的隔板上。”

“蔬菜的种类是最复杂的,只就萝卜一项说,就有红的、黄的、白的、绿的、青的、蓝的、紫的等颜色不一的种类。”

“万国商团的卡车也到了,从车上跳下了两三个人,去选取他们所要的,继而来了西洋的主妇和日本的厨女。
最后是中国的女佣,有的还随同她们的太太们在一起。于是虹口小菜场到了它的一天的最高点。”

1949年以后,三角地菜场依然是上海最具规模的大型菜场。
每逢节日,从上海各区专程到那里买菜的顾客也不在少数。
1997年,这个具有百年历史的菜场被拆除,原地建起三角地大楼。
在今天的吴淞路上,昔日买菜人流穿梭不息和购物货车频繁进出的热闹景观已不复存在,代之而起的是高楼下的冷清和寂寞。
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by officemei | 2009-08-28 18:55 | ■上海