■203高地
このドラマは三年にわたって放送される壮大な「明治叙事詩」。
司馬遼太郎の原作「坂の上の雲」は、軍人の秋山好古・真之兄弟と歌人の正岡子規の人生から、明治時代の日本を描き出している。
実は今年3月、所用で松山を訪れる機会があった。
わずかな時間しか滞在できなかったが、ぜひにも見ておきたかった所が二ヶ所あった。「秋山兄弟生誕地」と「坂の上の雲ミュージアム」だ。
そのミュージアムに隣接する萬翠荘にも寄ってみた。ここは大正11年に竣工した旧松山藩主久松家の邸宅(現愛媛県美術館分館)。
これを機に、若い頃に読みふけった文庫本を再読してみた。
「男にとって必要なのは、若い頃には何をしようかということであり、老いては何をしたかということである」
文中、秋山好古の言葉に目が留まった。
さて、203高地の段になると、数年前に訪れた記憶がまだ鮮やかに残っているので、その情景が脳裏に浮かび感慨ひとしおだった。
遼東半島南端に位置する旅順。その市街地に小高い山(海抜203m)がある。
ここが日露戦争旅順攻略の激戦地であった203高地だ。ここに立つと遥かに旅順港をのぞむことができる。
1904年12月、この高地を占領した日本軍は旅順港内に逼塞していたロシア艦隊を砲撃し、ようやくこれを壊滅させた。
1905年(明治38年)1月1日、旅順要塞のロシア軍は降伏し、水師営で停戦調印。
「坂の上の雲」に水師営の会見場所についてこう記されている。
・・・水師営とは村の名であり、その会場として指定されたのは劉という百姓家であった。戦闘中この家は日本軍の野戦病院につかわれていた。
「庭に一本棗の木」と、後年の「尋常小学国語教本」巻九の「水師営の会見」の歌の歌詞にあるように、門を入って左の泥塀に沿って棗の木がある。樹齢百年以上といわれているが、歌詞に「弾丸あともいちじるく」とうたわれているように、無数の弾痕が樹皮を裂いて生肌をあらわしている。
くずれ残れる民屋に、今ぞ相見る二将軍・・・
旅順攻撃の司令官・乃木将軍がその当時203高地を詠んだ漢詩がある。
爾霊山嶮豈難攀、男子功名期克艱、鐵血覆山山形改、萬人齊仰爾霊山
句中、爾霊山(にれいさん)と当て字したその203高地には今も「爾霊山忠魂碑」が聳え立つ。
付記;
大連から旅順に向かう途中、とある村で昼食をとった。
このあたりの名物だという巨大な焼き餃子。二個目は辞退した。