■ 所感

ジョン・マシュー・オトソン(John Matthew Ottoson);
山本音吉(日语假名:やまもと おときち,1819年-1867年),首名定居新加坡的日本人,也是首名环游世界的日本人。山本出生于1819年,日本爱知县美浜町。14岁当上了海员。有一次,他乘坐的船遇上大风浪,漂流了一年多后抵达北美洲。后来,他到过英国、澳门和上海工作,1862年到新加坡从商,还娶了本地女子为妻。山本音吉在1867年病逝,死后埋葬在新加坡武吉知马基督教墓园。

1819年(文政2年)尾张国知多郡小野浦村(现美浜町)出生。
1832年(天保3年)乘搭千石船・宝顺丸向江户(今东京)行驶,与乘组员在远州滩沉船。在海上漂流14个月后,到达美国西海岸。
1834年(天保5年)经过14个月的漂流后,仅三人生存,此三人为音吉、久吉和岩吉,他们到达美国华盛顿州,并在当地接受英语教育。
1835年(天保6年)在澳门完成世界第一本日本语版圣经的翻译。
1837年(天保8年)乘搭美国船只返往日本,当时美国船只遭到幕府炮击,因此前往上海定居。   1854年(安政元年)日英和亲条约缔结时,任英语和日本语的翻译员。
1862年(安政9年)抵达新加坡,是第一个在新加坡定居的日本人
1864年(元治元年)由于日本的锁国政策,无法返国,因此入籍英国。
1867年(庆应3年)49岁在新加坡的实乞纳去世,实乞纳也是山本音吉在新加坡的住所。

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「海商」柳蒼二郎著(徳間文庫)を読んだ。

天保三年、鳥羽を出航した弁才船が難破。一年二ヶ月あまりの漂流を生き抜き、ついに悲願の土を踏んだものの、そこは異邦の地であった・・・

日本人で初めて米国に立ち、世界初の聖書和訳を成し遂げ、英国の一流商社支店長まで務めた山本音吉=ジョン・M・オトソン。
日英和親条約の締結にも尽力、福澤諭吉にも影響を与えながらも、ついに故国に帰ることのなかった男の烈々たる生涯を描く。

この物語にはアヘン戦争南京条約後の上海が描かれており、外灘の英国租界と上海県城(豫園周辺)の当時の風景が想像できて興味深い。
さて、文中にジョセフ・ヒコの「漂流記」の一節が載っていた。
ジョセフ・ヒコ・・・
幕末から明治にかけて活躍したジョセフ・ヒコこと濱田彦藏は、私と同郷の播州人だ。
日本初の新聞を発行し、「新聞の父」といわれている。
ジョセフ・ヒコの「漂流記」、その一節とはこうだ。

支那の国風として、外国を賤しめ無礼を為すを、国威と心得違ひ致すによって、万国の人、又恒(つね)の支那人を扱ふには無体粗陋(そろう)なり

どの国の人にも悪癖はあるものだが、寡を視て多を断じる日中双方のメディアには辟易する。
しかし、その集合体、組織、徒党、国家となると個人の品性を逸脱した、得体の知れないものに変じてしまうのは何故だろうか。
今の中国はその極みだ。
驕れるものは久しからず・・・南無・・・
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