■ 311

東日本大震災から二年が過ぎました。
あの日、息子は八戸港付近の仕事場で津波に遭い、その後の長い期間、仕事場の復旧作業に従事していました。
ある日、気分転換のために仲間とバスケットをやりに八戸から岩手県の久慈に出かけ、その地である女性と出会ったのです。
彼女はこの震災で父親を亡くしていました。ふさぎ込んでいた彼女は家族の勧めもあって、久しぶりに外出し友人がバスケットをやっているのを見に行きました。
出会いとは不思議なものですね。一年後、結婚、そして出産。今年、3月11日は嫁の父親の三回忌。
遠く離れて暮らしてはいますが、3月11日という日は我が家族にとって重要な日になっています。

台湾・華視新聞;
日本311地震兩週年,災民生活勉強安頓,作息漸漸恢復了,大海嘯所帶來的破壞和垃圾都清的差不多了,照理說四週的景物已漸漸不再讓人觸景生情,但是311世紀強震海嘯的惡夢永難磨滅,即使災後兩年了,災民的傷痛依舊。日本時間下午2:46分311大劫滿兩週年的時刻,日本官方和民間舉行追悼儀式,悼祭亡者、撫慰生者。

日本時間下午兩點46分,警報響起,正如兩年前大海嘯來襲時,警報大作的那一刻,生還者在災區肅立默哀,僧侶嗚鐘悼祭亡靈。東京國立劇場也舉行東日本大震兩週年的追悼式,久未露面的日皇明仁和皇后美智子也出席,悼念死者、鼓勵生者。

排山倒海瞬間帶走人間的歡樂,兩年後的今,重災區仍有31萬5千人離鄉背井,福島核災受災戶也有三萬三千多人住在組合屋,雖然生活作息正常,雖然所有有形的景物都已看不到災難的影像,但無形的傷痛仍在,而痛失親人的倖存者,面對生離死別的煎熬,更需要勇氣活下去。



昨年三月、台湾の新聞やTVに日本からの「感謝広告」が流れました。
そして来年2014年2月以降にはこの「感謝広告」が台湾の教科書に掲載されることになったそうです。
取り上げられたその広告には、石巻の中学生たちが「元気です。ありがとう台湾」と書かれています。
台湾の中学3年生「公民」の教科書に、国際社会への関心の重要性を紹介する項目資料として掲載されます。
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2012年に台湾で放送された広告とNEWS;



■ 感謝台灣
■ 台湾からの義捐金
■ 大地震大津波

一方、中国は二周年追悼式を欠席しました。これは式典の献花に際して国名を読み上げる「指名献花」に、今年から台湾が加わったことを受けた事実上のボイコットで、「追悼式で台湾の関係者を外交使節や国際機構と同等に扱った」と、声高に抗議を表しました。
昨年の式典では、多額の義援金を寄付した台湾を、民主党政権は指名献花から外し礼を失しましたが、今回、自民党政権は当たり前の対応を躊躇なく行なったということです。

ちなみに当時の各国からの義捐金をチェックしてみますと(額の多寡と心遣いは別物ではありますが)、台湾からの義捐金が圧倒的に多いということに驚きます。
わずか九州と同じくらいの国土、人口2,300万の台湾が、国連から脱退して40年近くになる孤高の台湾が、人口13億5千万、GDP世界2位の中国の5倍以上もの義捐金を送ってきたことに我々は想いをいたすべきです。

台湾の代表を式典に公式に招くのは当然のことです。
前政権が中国に遠慮し、公式な献花の場に台湾代表を招かなかった行為は日本人として恥ずべきことではありませんか。
加えて、人道よりも政治を優先する中国(共産党政権)の式典ボイコットも我々は記憶に留めておきましょう。
かつて中華民国総統・蒋介石が日本敗戦時に言った言葉、「以徳報怨」を思い起こします・・・

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朝日新闻/天声人语20130311;
歳月は気まぐれなランナーに似ている。のんびり流しているかと思えば、一転、歩を速めて移ろいもする。ひと続きの時の大河に、私たちのささやかな命は浮き沈み、現れては消える。震災被災者にとって、恐らくは激流のような2年が過ぎた。
いや、時は止まることもある。宮城県名取市の会社員、桜井謙二さん(38)の悲嘆を本紙で読んだ。妻(当時36)と長女(同14)次女(同10)を、マイホームもろとも津波に奪われた。
「みんな復興へと動いている。でも、私は家族を失ったという思いにとどまっています。そんな気持ちを口にすることも難しくなっている」。自宅跡の更地にたたずみ、3人との日々をただ感じているという。
〈そのあとがある/大切なひとを失ったあと/もうあとはないと思ったあと/すべて終わったと知ったあとにも/終わらないそのあとがある〉。谷川俊太郎さんが先ごろ、本紙夕刊「今月の詩」の最終回に寄せた「そのあと」だ。絶望を生き抜く者への励ましが、静かに胸に迫る。
〈そのあとは一筋に/霧の中へ消えている/そのあとは限りなく/青くひろがっている/そのあとがある/世界に そして/ひとりひとりの心に〉。桜井さんの時間も、やがて、ゆっくりと動き始める。
先は見えない。だが見えずとも先はあって、被災者も、寄り添う国民も「そのあと」を生きてゆく。犠牲者は「私たちの分まで」と声をからしていよう。三回忌を区切りにできる人ばかりではないが、今は前を向きたい。

訳1)岁月就像随性的跑步者,你正以为他在慢悠悠的前行,倏忽一下,他就迅速加快了步伐。我们小小的生命在不断流淌的岁月大河中,时沉时浮,忽隐忽现。对于地震灾区的受难者来说,这两年的岁月恐怕是如激流般流淌而过。
不,有时岁月也会忽然停止流转。在本报读到宫城县名取市公司职员樱井谦二(38岁)发出的感叹。妻子(当时36岁),长女(当时14岁),次女(当时10岁),房子都被海啸吞噬了。
“大家都在致力于灾后重建,但我还陷在失去家人的忧思之中,并且越来越难用语言表述这种心情”。他经常徘徊在自家房子的遗址,怀念着与妻女共度的日子。
“那之后/失去亲人之后/以为没有以后之后/知道一切都结束了之后/还有永不终结的之后”。这是谷川俊太郎之前寄往本刊晚报“今月之诗”栏目最后一回的“那之后”。诗中透露出的对在绝望中苦苦挣扎之人的勉励之情,轻轻敲打着我的心门。
“那之后/全然消失在雾中/那之后蓝天/扩展无限/那之后还在世界里/那之后还在人们心田里”。属于樱井的时间不久之后终会开始启动。
看不到将来。但是看不见也有将来,受灾者、相依为伴的国民们都在“那之后”继续生活。牺牲的人们一定在声嘶力竭地呼喊着“替我们好好活着”。并不只是要把二周年当成一个段落,更要活在当下,面向未来。

訳2)岁月好似心血来潮的赛跑者。以为它会缓缓地流逝下去,谁想也会突然加快更迭脚步。在时间的长河里,我们微小的生命浮沉,出现又消失。但对于震灾受害者来说,这恐怕是有如激流的2年。但时间也有停止之时。我在本刊读了宫城县名取市的员工樱井谦二(38岁)的悲叹。他的妻子(当时36岁)、长女(当时14岁)以及二女儿(当时10岁)连同自己的房屋全部被海啸吞噬。“大家都在为复兴行动着。而我却一直停留在失去家人的悲痛中。连把这份心情说出口都在变得越来越难”。他站在原本是自家房屋的空地上,缅怀着曾经与妻女三人的日子。“有种东西叫‘之后’/失去了重要的人之后/以为不会再有有后续之后/就算知道一切都完了之后/也会有并没有结束的‘之后’”。谷川俊太郎先前为本刊晚刊的“本月诗”的最终回献上的《之后》。诗中静静透出一股鼓励绝处逢生之人的力量。“之后一心一意地/消失在雾中/之后无限地铺出一汪蓝/那之后永远存在/在世界中,在每个人的心里”。樱井的时针不久之后定会缓缓开始走动。前面的路看不见。但就算看不见,前面的路都在那里。无论是受灾者还是紧贴的国民,都在对“之后”的期待中向前走。我想牺牲者们应该在嘶声叫喊“请连我们的份一起活下去”吧。并不是所有的人都可以把三周年祭当成一个段落,但现在我只想向前看。
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by officemei | 2013-03-11 10:20 | ■日本