■ 嘉農「KANO」
台湾西南部のまち・嘉義。
このまちが今ちょっとした脚光を浴びています。
映画「KANO」が3月末にこのまちでクランクアップしたのです。
「KANO」とは台湾がまだ日本だった頃の1931年、夏の甲子園で準優勝を果たした嘉義農林学校野球部の実話をベースにした映画です。
「KANO」は嘉義農林の略称「嘉農」(かのう)です。中国語の発音では「JIANONG」となりますが、敢えて当時の台湾人が呼んでいた日本語の嘉農(KANO)をタイトルとしています。
「嘉農」チームは日本人と原住民(いわゆる高砂族)と台湾人(漢民族)の混成チームでした。
当時、この決勝戦を観戦した菊池寛が、「僕はすっかり嘉農贔屓になった。異なる人種が同じ目的の為に努力する姿はなんとなく涙ぐましい感じを起こさせる。ただの勝ち負けではなく、嘉農は確かに歴史を作り出し、怖れることなく自ら挑戦していくという、本当の勝利を教えてくれた」と語ったそうです。
以下、映画のあらすじを「果子電影」の公式FBにアップされている、台湾映画「KANO」情報からご紹介しましょう。
1944年、第二次大戦中、日本軍が植民地台湾を経由して南洋へと進出する際に、「嘉義についたら、俺を呼んでくれ」とつぶやいた日本人がいた。
かつて「札幌商業野球部」キャプテンだった錠者博美は、甲子園球場で対戦して負けを喫した台湾の無名チーム「嘉義農林野球部」のことが忘れられないでいた。14年後、将校となった錠者は嘉義に行きたいと思い続ける。
1929年、日本の植民地時代の台湾に三つの民族(日本人、台湾人、台湾原住民)からなる嘉義農林学校野球部が誕生、初めは体を鍛えることだけが目的だったのが、近藤兵太郎というコーチを迎えてからは、甲子園進出を目標にスパルタ式訓練が行われ始めた。
のんびりしたチームだった嘉農野球部は、近藤の鬼のような特訓を1年間受けると、連敗続きの野球部員に勝利への強い意志と甲子園出場の夢を抱いて、ついに1931年、台湾で連勝を続け、日本人のみの常勝チームであった「台北商業」を打ち負かして、濁水渓から南部の学校で初めて台湾代表大会に優勝、台湾野球の歴史を塗り変えた。嘉南大圳の灌漑用水路の開通に沸く中、嘉農野球部は台湾の代表チームとして、日本への遠征へと赴く。
5万5千人の大観衆の前でプレイする甲子園は嘉義農林野球部員たちの夢であるだけでなく、近藤の夢でもあった。第一回戦は3対0で神奈川代表に勝利し、日本の野球界の注目を浴び、第二回戦では札幌商業とぶつかった。札幌商業投手の錠者は、嘉農の選手たちに次々と出塁を許し、嘉農は19対7で圧勝、第三回戦も10対2で小倉商業チームをくだした。
連戦で、嘉農のエース呉明捷は手の指の爪をはがす大怪我を負い、中京商野球部との決勝戦では、ボールを連発、焦り怒る近藤に呉は、この試合を自分の最後の試合と思って完投させてくれ、と頼む。呉の固い決意に感動した監督と仲間たちは一致団結して呉の願いをかなえようとする。
しかし、石灰を手の傷にまぶしての呉の奮闘も、相手チームの攻勢には抗しがたかった。その時、チームメイトたちが声をかける。「思い切り直球を投げろ。守備は俺たちに任せろ!」「俺たちは台湾の嘉義から来た仲間じゃないか!」球場の大観衆が驚いて見守る中、呉は歯をくいしばって一球一球と直球を投げ続ける。守りの選手たちは、一球また一球とキャッチするたびに、「いらっしゃいませ!」と叫び自分たちを奮い立たせた。その場に居合わせた全観衆を感動させると同時に、遠い台湾でラジオ放送を聴く台湾の人々を興奮させた。近藤の胸は、頼りなかったメンバーが不屈の闘士に成長した姿を目のあたりにして、感慨でいっぱいになる。
観客席からは札幌商業のエース錠者の叫び声が聞こえてくる。「おまえたちは戦場の英雄だ。嘉農は天下一だ」…
嘉義・・・
ずっと以前、そう1974年のことですが、私はこの嘉義農林の活躍を初めて知りました。
鈴木明の「誰も書かなかった台湾」という本を読んで嘉義農林の物語に感動したことを、今でも記憶しています。更には同年(1974年)に私は初めて台湾を訪れています。居候先の台北の葉さん宅からご実家のある嘉義に一度おじゃましたこともあります。その後、何度か訪れていますので嘉義は私にとって印象深いまちと言えるでしょう。
映画「KANO」は2014年旧正月(春節)公開予定だそうです。
日本からは永瀬正敏や大沢たかおなどが出演しています。乞うご期待・・・