■ テレサ還暦

もしテレサがまだ生きていたら、1953年出生の彼女は今年60歳になっています。
父親は国軍(国民党軍)の軍人でした。共産党軍に敗れ、家族を引き連れ命からがら台湾に逃れてきた一家に誕生したのがテレサでした。
11歳の頃、台湾のラジオ局の黄梅調(伝統歌曲)歌唱コンテストに参加、最年少で1位に輝きました。14歳の頃に初めてのレコード『鳳陽花鼓』を録音、16歳で台湾初のテレビ連続ドラマの主題歌を歌い、テレサの歌声は台湾中で愛されていきます。
そして1970年代になると、香港や東南アジアで巡回公演を行い華人社会でスターの地位を築き、1974年には日本進出を果たします。
デビュー曲「今夜かしら明日かしら」は実はあまりヒットしませんでした。この失敗を、テレサは自分の日本語の発音が正確でないからだと考え、いっそう練習に励んだそうです。
そして2枚目の「空港」で日本レコード大賞新人賞を獲得します。
1979年、インドネシアのパスポートで日本に入国しようとしたことが問題となり日本での活動が一時頓挫します。
その後、再び日本で活動を始めたテレサは「つぐない」「愛人」「時の流れに身をまかせ」と3曲連続して日本有線大賞、全日本有線放送大賞を受賞します。

80年代からは香港に移り住み、アジアの歌姫として揺るぎない地位を築いていきました。
やがてテレサのカセットテープは中国大陸にも持ち込まれ、海賊版が横行するようにもなります。愛や郷愁を歌うテレサの甘い歌声が、大陸の人々が失いかけていた「情」に響いたからでしょう。
しかし、テレサの歌は共産党によって「退廃的」とされて禁止されます。それでもひそかに聴かれ、「昼は老鄧(鄧小平)を聞き、夜は小鄧(テレサ・テン)を聴く」と揶揄されるほど大衆の絶大な支持を得ていきます。

順風満帆の歌手人生とはうらはらに、私生活では順調とは言えませんでした。18歳の頃にマレーシア華僑の実業家と知り合いますが、相手の病没で深い傷を残します。1981年、再びマレーシア華僑と恋に落ちましたが、「結婚したら芸能界とは一切の関係を絶つこと」を条件に突きつけられて、テレサは歌を選びました。
しかしそのことでうつ状態になったのでしょうか、80年代後期には芸能界から次第に遠のき、パリにひっそりと暮らします。

そして、1995年5月8日。
タイのチェンマイで喘息発作によって亡くなってから、早いものでもう18年も経ちました。
あの突然の死から、私も何度か墓参りに台湾に行きました。
私も閉塞された1975年当時の北京で、テレサの歌声をずっと聴いていた世代です。テレサの歌には言い尽くせない思い入れがあります。
今年の命日(5月8日)には金寶山に眠っている彼女に会いに行けるかどうか・・・

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2010年5月8日;
2008年9月25日

北京電視台"非常記憶"節目,紀念鄧麗君誕辰60週年;

2013.04.07紀錄台灣/鄧麗君42歲猝逝 佳人殞落美聲在 ;


ラブソング(甜蜜蜜)という映画。
中国大陸から夢を追って香港へやってきた男女のラブストーリー。二人ともテレサの歌が好きだという設定から始まります。
すれ違いを重ねた二人はニューヨークの街頭で、テレビに映るテレサ死去のニュースに足を止めたことによって再会を果たします。
1997年の香港返還を控え、人々が動揺していた折に「ラブソング」は中国人の漂泊を描き、テレサ・テンに特別な思い入れのある華人の心をとらえました。
その「ラブソング」の原題「甜蜜蜜」は元々テレサの持ち歌でした。

この映画は一見に値します!


華語ポップス初の取り組みとして世に出たアルバム「淡淡幽情」は、全曲を宋詞から採った秀作でした。実に文学的で味わいのある作品です。
中でも「但願人長久」は、蘇軾の名作「水調歌頭」は中国初の月周回衛星「嫦娥一号」で流れました。

鄧麗君 Teresa Teng 淡淡幽情 全12 首歌曲;

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by officemei | 2013-04-16 12:14 | ■台灣