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■何応欽将軍の揮毫

■何応欽将軍の揮毫_e0094583_217914.jpg台北YMCA訪問の折にみつけた、何気なく壁に掛けてあった何応欽将軍の揮毫です。

“非以役人 乃役於人”とは、新約聖書マルコの福音書第10章第45節の一文だそうです。
Not to be served but to serve つまり「仕えられるためではなく、他の人たちに仕えるために」ということでしょうか、文革時代の口先だけの「爲人民服務」とは対照的ですね。

“非以役人 乃役於人”,意思就是“並非使喚別人的,而是被別人使喚的。”
基督教青年以“非以役人,乃役於人” ( Not to be served but to serve)為會訓,這句話引自《聖經.新約.馬可福音》第十章第45節,在基督教界是一句膾炙人口的名言,現代人更加視之為高尚的情操,因為它描繪出一種捨己為人的精神。“非以役人,乃役於人”是徹底的為人民服務。


私は以前、YMCA日本語学校の学生募集のために台湾・中国を何度もまわっていたことがあります。台北YMCAにも何度か訪問していました。
私自身はクリスチャンではありません、家は浄土真宗です。上海の友人が「仏教は宗教ではなく、人として生きるための教育の書、哲学だ」と常日頃私に話してくれていました。それ以来、私は「上海居士林」という在家の瞑想場所に行き、一人坐すようになりました。多少文革の傷跡の残る殺風景な教場で、一刻瞑想するのはいいもんです。

さて、何応欽とは如何なる人物でしょうか。
この揮毫に寄せた思いは何だったのでしょう・・・

■何応欽将軍の揮毫_e0094583_839780.jpg何応欽に関する豆知識;
何応欽(1890年4月2日 - 1987年10月21日)は中華民国の軍人。黔軍(貴州陸軍)出身で、後に孫文(孫中山)配下となり、国民革命軍創設に貢献しました。孫死後はかねてから親しかった蒋介石を支え、その片腕と評されるまでになります。軍政部長を長期にわたり務め、日中戦争末期に連合国中国戦区陸軍総司令に就任、日本の降伏受諾任務にも携わりました。しかし戦後は蒋との関係が悪化して一時冷遇され、国共内戦後半に復権して国防部長や行政院長も務めましたが中国人民解放軍に敗北します。字は敬之。祖籍は江西省撫州府臨川県。

経歴;(Wikipediaより)
日本留学と黔軍での台頭・失脚
1906年(光緒32年)、貴州陸軍小学堂に入学し、1909年(宣統元年)、武昌陸軍第三中学に進学した。同年冬、谷正倫らと共に日本に留学し、東京振武学校第11期で学習した。このときに蒋介石とも知り合い、また中国同盟会に加入した。1911年(宣統3年)秋に辛亥革命が勃発すると、何応欽は帰国して上海に赴き、滬軍都督陳其美の下で革命派として活動した。 1913年(民国2年)の第二革命(二次革命)で革命派が敗北すると、何応欽は日本に逃れ軍事の学習を再開する。1914年12月に陸軍士官学校に中国学生隊第11期として入校。同期に朱紹良・賀耀組らがいた。1916年5月、陸士(第28期に相当)を卒業して帰国し、黔軍(貴州陸軍)第1師歩兵第4団団長に任命される。また、「新派」の指導者王文華の妹・王文湘と結婚し、何自身も新派の幹部と目されるようになる。以後、貴州講武学校校長、少年貴州会主任、黔軍第5混成旅旅長、貴陽警備司令などを歴任した。 1920年(民国9年)11月10日、何応欽は王文華配下の同僚・谷正倫と共に王の指示で旧派粛清の兵変を敢行し、貴州督軍劉顕世を下野に追い込んだ(民九事変)。ところが翌1921年(民国10年)3月、王が北京政府を支持する配下・袁祖銘の刺客に上海で暗殺されてしまう。このため、王の委任により黔軍総司令代理を務めていた盧燾が正式に総司令となったものの、外省人だった盧は指導力を発揮できず、何と谷の間で主導権争いが展開された。 当初は省会たる貴陽の警察権を握る何応欽が優勢だったが、谷正倫は省外で孫文(孫中山)のために軍功をあげるなどして次第に軍事力を拡大、1922年(民国11年)1月には孫から中央直轄黔軍総司令に任命される。これにより形勢は逆転し、さらに谷は何の配下を買収して兵変を起こさせ、ついに何は貴州から駆逐されてしまった。まもなく何は雲南に赴き、孫を支持する滇軍総司令顧品珍から雲南陸軍講武学校校長に起用される。ところが何に怨みを抱く旧派の刺客に銃撃されて瀕死の重傷を負い、上海で療養することになった。
国民革命軍創設期の活動
1924年(民国13年)、何応欽は蒋介石の推薦を受けて孫文の下で大本営軍事参議に任命され、さらに廖仲愷を補佐して黄埔軍官学校の創設に従事した。同学校が開校すると、軍校少将総教官に任命され、軍事教学・訓練の責任者を務める。まもなく何は同学校教導第1団団長に昇進し、1925年(民国14年)1月より陳炯明討伐の第1次東征に従事、陳配下の難敵・林虎を激戦の末に破った。同年3月、第1旅旅長に昇進し、さらに楊希閔・劉震寰の反乱を鎮圧している。7月、国民革命軍の正式な成立と共に、何は第1軍第1師師長に就任した(軍長:蒋介石)。10月より第2次東征に第1縦隊隊長として参戦し、翌月に陳の軍を殲滅、勝利を収めている。この間の活躍により、何は「蒋介石の片腕」と評される存在にまでなった。 1926年(民国15年)1月、何応欽は蒋介石の後任として第1軍軍長に任命された。同年3月の中山艦事件でも、蒋の指示に従い軍内の中国共産党員をことごとく罷免し、さらに黄埔軍官学校教育長に就任している。同年7月からの北伐では、何は東路軍総指揮として福建攻略を担当、北京政府側の福建督弁・周蔭人を撃破、12月には福州を占拠した。翌1927年(民国16年)1月には、浙江で孫伝芳の北京政府軍を撃破、2月に杭州を占拠している。 同年4月の上海クーデター(四・一二政変)でも、何応欽は蒋介石を支持した。これにより蒋介石が南京に国民政府を樹立すると、何は国民政府委員に任命され、さらに翌月には第1路軍総指揮となった。何は北伐を続行し、長江を渡り北進したが、徐州で北京政府側の反撃に遭い、敗北を喫する。このとき、蒋は自ら前線で督戦したにもかかわらず敗北したことに怒り、前敵総司令を務めた第10軍軍長王天培に「敵前逃亡」の罪を被せて処刑し、さらに何に対しても非難を浴びせるほどであった。何はこれに怒り、新広西派(新桂系)や武漢国民政府側が蒋の責任を問う動きを見せてもこれを放置、孤立した蒋は8月13日に一時下野に追い込まれている。その後、何は新桂系の李宗仁や白崇禧と協力して、孫伝芳軍を竜潭で殲滅、北伐の趨勢を決定付ける勝利を得た。
満州事変と対日交渉
1928年(民国17年)1月、蒋介石が復権して国民革命軍総司令に就任し、何応欽は総司令部参謀長としてこれを補佐した。これ以後は蒋と何の関係は修復され、同年11月、12月に何は国軍編遣委員会主任委員、訓練総監部総監を務め、軍縮や反蒋派討伐を推進している。1929年(民国18年)3月、中国国民党第3期中央執行委員に当選し、1930年(民国19年)春、軍政部部長に就任した。1931年(民国19年)1月、湘鄂贛閩四省剿共総司令兼南昌行営主任に任命され、第2次共産党(紅軍)包囲掃討作戦を敢行したが、失敗に終わる。続く第3次・第4次の作戦でも敗北を喫した。 1931年(民国20年)、満州事変(九・一八事変)が勃発すると、何応欽は蒋介石の「安内攘外」(先に国内安定、後に抗戦)方針を遵守し、日本軍との全面抗戦には消極的な態度を取り続けた。1933年(民国22年)3月、何は張学良の後任として軍事委員会北平分会会長代理として北平に赴任する。以後、行政院北平政務整理委員会委員長の黄郛と共に華北に侵攻する日本軍との交渉に従事し、5月、何の意を受けた中国側代表・熊斌(当時、軍事委員会北平分会総参議)と日本側代表・岡村寧次(当時、関東軍参謀副長)との間で塘沽協定が結ばれた。同年、協定に不満を抱いた馮玉祥らが察哈爾民衆抗日同盟軍を組織すると、何は土肥原賢二らと連携してこれを包囲し、8月に同軍を解散に追い込んでいる。 1935年(民国24年)5月、天津を中心とする華北各地での抗日行動につき、日本側が何応欽を非難し、何もこれに応じて交渉を開始した。翌月、河北省からの国民党部や軍の撤退等を内容とする梅津・何応欽協定(中国側呼称:何梅協定)を締結している。11月、軍事委員会北平分会は廃止され、12月に何は南京に戻り、軍政部長の任に復した。1936年(民国25年)12月12日、西安事件で蒋介石らが張学良・楊虎城らに拘禁されると、何は即時討伐を主張し、16日には討逆軍総司令に就任、宋美齢らの反対意見を無視して西安への攻撃命令を下す。18日、蒋介石と共に拘禁されていた蒋鼎文が蒋介石直筆の軍事行動停止命令を何に届けたことで攻撃は中止され、西安事件そのものも結局平和裏に解決された。
日中戦争と国共内戦、晩年
1937年(民国26年)、日中戦争(抗日戦争)が勃発すると何応欽は南京で軍の編成にあたり、8月、軍政部長に加え第4戦区司令長官を兼任した。翌1938年(民国27年)1月、軍事委員会参謀総長も兼ね、戦時の軍制・計画・指揮に責任を負うことになる。1944年(民国33年)12月、何は14年以上もの長期にわたり在任した軍政部長を退き、連合国中国戦区陸軍総司令に就任した。翌1945年(民国34年)8月、何は南京軍官学校における降伏文書調印式では陸軍総司令として中国側代表を務める(日本側代表は支那派遣軍総司令官岡村寧次)。満州を除く中国内陸部で降伏した日本人兵士らの安全な輸送帰国を遂行し、日本から感謝された。 日中戦争終結後になると、蒋介石は強大な軍権を掌握する何応欽に猜疑を抱き始め、何の軍中の政敵である陳誠を信任するようになっていく。1946年(民国35年)5月、国民政府において国防部が成立し、部長に白崇禧、参謀総長に陳が就任した。一方、軍事委員会と陸軍総司令部は廃止され、何も同時に罷免されてしまう。そのため失意の何は、国連安全保障理事会軍事参謀団中国代表団団長としてアメリカに赴くことになった。 1948年(民国37年)3月に何応欽が帰国した頃には、陳が東北での大敗で失脚し、何は行政院政務委員兼国防部長に起用される。しかし、実際の軍権は蒋の手中にあり、何にはほとんど実権が無かった。1949年(民国38年)3月、総統代理李宗仁(この直前に蒋が一時下野)の下で何は行政院長を務めたが、何は李ではなく蒋の指示を遵守し、李が推進した国共和平協定の調印を最終的に拒絶している。4月、何が国防部長を兼任し、中国人民解放軍迎撃に備えようとしたが、すでに長江を渡河した解放軍を防ぐ術はなく、5月に行政院長を辞任、8月に台湾へ逃亡した。 台湾での何応欽は、1950年(民国39年)5月に総統府戦略顧問委員会主任委員(1972年5月より同委員会戦略顧問)に任命される。何は蒋介石のために、日本やアメリカ、東南アジア各国を訪問し、連携確立に努力した。そのほか、中日文化経済協会理事長、三民主義統一中国大同盟主任委員などを歴任している。1987年(民国76年)10月21日、台北市にて心臓の衰弱により死去。享年98(満97歳)。

何應欽,字敬之,貴州省興義縣人,生於清光緒16年。光緒27年,考入貴州陸軍小學,畢業後升武昌陸軍第三中學。34年,被選派赴日本,入日本陸軍士官學校第11期步科,並於此時加入同盟會。辛亥革命爆發後,何輟學返國,任職陳其美之滬軍都督府。
二次革命失敗,遂復東渡日本完成學業。5年秋返國,任黔軍第1師步兵第四團團長。13年1月赴廣州,奉孫大元帥任命為大本營參謀處軍事參謀;6月,任黃埔軍官學校少將總教官;10月,兼教導團團長。13年冬,陳炯明叛變,謀襲廣州,何參加討伐,是為第一次東征。當時校軍,即以教導第1團為前驅。14年3月棉湖之役,大破敵軍,確保革命策源地;6月,參加平定楊希閔、劉震寰之叛變;7月,國民政府成立,積功升任國民革命軍第1軍第1師師長;9月,第二次東征,任第1軍軍長。
15年7月,國民革命軍北伐,兼潮梅警備司令。16年元月,任東路總指揮,掃蕩福建周蔭人部,進軍南京;9月,龍潭之役,大敗孫傳芳部,力挽革命危局。17年2月,任北伐全軍總司令部總參謀長,北伐之成功,多賴策劃。北伐成功,特任訓練總監,並負責國軍編遣工作。19年3月,任軍政部部長。20年2月,任南昌行營主任;6月,任剿共軍前敵總司令兼左翼集團軍總司令官。22年3月,兼代軍事委員會北平分會委員長;5月30日至31日,在塘沽與日關東軍參謀副長等,舉行會議兩次,在第二次會議中,簽定所謂「塘沽停戰協定」,至是戰端遂息;而日軍以武力併吞華北之陰謀,乃成泡影。25年12月12日西安事變,16日,國民政府下令討伐張學良,特派何為討逆總司令,一面以中央各路大軍及空軍立即迅速集結,以強大壓力加於西安;一面配合中央,宣慰西北軍民,時局乃得以急轉直下,轉危為安。
26年,抗戰軍起,任第四戰區司令長官,坐鎮廣州。27年元月,升任軍事委員會參謀總長仍兼軍政部長,集作戰後勤重任於一身。32年10月,獲頒青天白日勳章。33年9月,日軍以強弩之末,向我桂柳地區,大舉進犯,貴陽及陪都重慶,均感震動,將軍臨危授命,趕赴貴陽督師迎擊,克復獨山,扭轉黔桂戰局,使貴陽及重慶轉危為安;11月,任中國戰區中國陸軍總司令,配合盟軍作戰。34年8月,日軍無條件投降;9月9日,代表最高統帥蔣委員長,在南京中國戰區陸軍總司令部(即陸軍軍官學校舊址)接受中國戰區日軍最高司令官岡村寧次之正式投降。35年6月,出任我國駐聯合國軍事代表中國代表團團長。37年3月,奉蔣主席電召返國;6月,出任國防部部長。38年3月,任行政院院長;5月,為維護民主憲政之法統,辭卸行政院院長,旋隨政府轉進臺灣。
39年5月,任戰略顧問委員會主任委員,先後往訪日、菲,敦睦邦交,宣慰僑胞。45年至50年間,為策進世界道德重振,曾先後組團出國,對反共貢獻甚大。68年3月11日,將軍90華誕,為酬庸勛勤,特頒授國光勳章。71年10月,任三民主義統一中國大同盟總主席。76年10月21日病逝臺北,享年97歲
by officemei | 2014-01-08 09:03 | ■台灣