■豊田

e0094583_22344781.gif台湾には、その歴史的な背景にもよるが、日本のどこかのまちかと思わせるような地名が多い。
三重・板橋・台東・竹田など。
さて・・・以下日本語訳対照、


「豊田」という地名が台湾にある。この日本的な名に100年ほど前の日本人移民村の物語が秘められている。ぽつりぽつりと残る日本式家屋や、大きく茂るパンノキ、香りたつゲッキツの花が、長い時を経てもなお、かつてここにあった日本人の暮らしを物語る。

「豐田」,一個和風洋溢的地名,述說著一個近百年前日本移民村的故事。
物換星移、時過境遷,整齊的社區街道上,幾幢殘存的木造日式宿舍、茂密的麵包樹,香氣襲人的七里香,或者一面殘敗的牆面,靜靜地吐露著日本移民的生活過往。
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十数年前、日本からの観光ツアーに一人、高齢の女性が加わっていた。彼らを乗せた観光バスが花蓮に着くと、その女性の顔が曇りがちになった。不思議に思った添乗員が声をかけて初めて、その女性が花蓮生まれだとわかった。そこで添乗員は彼女をタクシーに乗せ、生まれ故郷の豊田へと連れて行き、昔のことをあちこち尋ねて回った。そして、ある家の壁の前に来た時、その女性が急に立ち止まったかと思うと、壁に寄りかかるようにして泣き崩れた。

十幾年前,一位跟團到台灣旅遊的日本歐巴桑,在遊覽車進入花蓮後就始終悶悶不樂。經過導遊探詢,才知道原來歐巴桑是在花蓮出生的。於是導遊帶著歐巴桑坐上計程車來到豐田社區,幾經詢問打聽,歐巴桑最後在一面殘敗的牆壁前停住,然後扶牆痛哭。

e0094583_1844858.jpg日本語の話せる地元の老人が仔細を尋ねると、女性は壁にうっすらと残る「田原」という字を指してこう語った。当時、彼女の母親が身ごもり、喜んだ父親は家を拡張することにした。ところが思いがけぬことに母親は難産で亡くなってしまった。まだコンクリートの乾かぬ壁に、悲嘆にくれた父親が指で書いた文字がこの「田原」だったと。
それ以来、豊田の人々はこの壁を「嘆きの壁」と呼ぶようになったという。

在當地會說日語老人家的詢問下,日本歐巴桑指著水泥牆上依稀可見的「田原」二字,娓娓敘述:當年她的母親懷孕,父親高興地拓建房屋,怎知母親卻因難產過世,悲痛的父親於是在水泥未乾的牆上,用手指頭寫下他們的姓氏「田原」來紀念母親,這一面偶然留下的牆壁,刻下了傷心的往事,也述說著日本移民村的故事,豐田社區的居民於是稱這一面牆為「哭牆」。

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豊田は、花蓮市から約25キロ離れた花蓮県寿豊郷にある。かつての豊田村は現在、豊山村と豊裡村、豊坪村に分かれているが、住民は今でもこれら3村を「豊田」と呼び続けている。

豐田社區,位於花蓮縣壽豐鄉,距離花蓮市大約25公里。儘管目前已經沒有「豐田村」這樣的行政區,但是壽豐鄉豐山村、豐裡村、豐坪村的人們,依舊習慣總稱3村為「豐田」。

台湾移民史をひも解くと、奥山と称されてきた東部の花東地方に漢人が入植したのは、19世紀後半になってからのことだ。それも現在の玉里周辺に限られており、花東地方の開墾が大規模に始まるのは、日本統治時代である。

翻開台灣移民史,被稱為「後山」的花東地區在19世紀後半,才有少數漢人移入,主要集中在今天玉里一帶。花東地區真正大規模的開墾,始於日據時代。

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1899年、日本の賀田組によって町が建設され、寿豊一帯は製糖業や樟脳事業に取り組んだが、気候などが合わず、成功しなかった。その後、台湾総督府は台湾の調査と評価を実施し、日本からの移民を計画的に進める。農業では、台湾西部の平野は大規模な土地獲得が難しく、しかも台湾人と日本人が同化することも日本政府は好まなかった。そこで注目されたのが台湾東部で、大正初年に豊田、吉野(現在の吉安郷)、林田(現在の鳳林鎮大栄と北林村)に農業移民村が作られた。これは、日本の人口過密を解決するためであり、また、台湾を南洋進出のための試験地とするためであった。現在、豊田には移民村の痕跡が最も多く残されている。

1899年,日本企業「賀田組」進入新城、壽豐一帶從事糖與樟腦事業經營,卻因天氣等原因鎩羽而歸。之後,台灣總督府針對台灣作了一系列的評估調查,並有計畫地引進日本移民。因考慮台灣西部大片土地取得不易,還有被台灣人「同化」的可能,於是自大正初年起,在吉野(今吉安鄉)、豐田與林田(今鳳林鎮大榮、北林村)建立農業移民村,一來抒解日本本島擁擠的人口,二來以此作為將來前進南洋的試驗地。目前以豐田社區留有最多移民村遺跡。

日本から台湾へとやってくる一般の公務員や企業駐在員らと異なり、彼ら農民は日本で一切の家財道具を売り払い、この異郷の小島で漢人すら未踏の荒地に分け入って、新天地を作ろうという人々だった。

與當時一般到台灣工作的日本公務員或生意人不同,這幾批來自「內地」(日本)的農民,變賣一切家當,深入台灣這個異鄉小島,他們進入漢人尚未開墾的蠻荒之地,希望在這裡安身立命,建立自己的家園,擁有自己的土地。依然矗立在農民菜園中,刻有「聚會一所」的納骨塔,曾經埋放著許許多多在此過世的日本人,可見他們落地生根的決心。

大正2年盛暑の7月、北海道と四国から農業移民の第一団がやってきた。移民村の建設はまだ完成しておらず、彼らは異なる気候に悩まされただけでなく、伝染病や野獣にもおびえて暮らさねばならなかった。食生活の基本であるコメも、また大量の石灰質を含む水も、彼らには馴染めなかった。

1913年(大正2年)盛暑7月,來自日本北海道及四國的第一批農業移民來到豐田。當時的移民村建設尚未完成,除了要適應冷熱完全不同的氣候,面對各種熱帶傳染病侵襲,還要擔心野獸侵害,包括飲食最基本的米,以及含有大量石灰質的飲水,都讓他們適應不良。

e0094583_18444951.jpg1917年、東台湾は二度の台風に相次いで襲われ、基礎作りのなんとか整っていた豊田村では、田畑が流され家屋も倒壊するなど大きな被害を受けた。しかも台風後の伝染病で多くの命が奪われた。現在、田畑の片隅に残る「香月」と記された墓碑には、1歳の子供を含む一家20名余りの名前が並ぶ。

1917年,東台灣連續遭受兩次強烈颱風襲擊,讓好不容易才打下一點基礎的豐田村損傷慘重,包括耕地流失、住宅傾倒,颱風之後的傳染病,更奪去不少生命,一塊倒在田裡的墓碑上,刻著日本「香月」一家二十多口人的名字,最小的才一歲多,可以知道開墾初期的艱辛。

開墾の進展とともに、行政や教育機関も建設されていった。移民村の最高機関であった豊田移民指揮所は、現在は村おこしの中心的な場である村民センターになっている。地元で「医者の家」と呼ばれる建物はかつての医療所で、玄関の屋根には今でも鬼瓦が残る。人々の心の拠り所だった豊田神社(現在の碧蓮寺)には、狛犬や参道の石灯籠、鳥居などが残されている。当時の豊田小学校(現在は豊裡小学校)には、かつて子供たちが竹刀代わりに振り回し、そのあと地面に突き立てたカジュマルの枝が、50株以上の大樹に成長している。

在胼手胝足的開墾中,相關的政教建設一一落成,移民村最高機關──豐田移民指揮所──成為今天社區營造火車頭的社區中心;被民眾俗稱「醫生的家」的昔日醫療所,入門玄關上、造型特殊的「鬼頭瓦」,依舊崢嶸地保護宅地不受邪靈侵襲。作為安頓心靈的豐田神社(今天的碧蓮寺),廟前留有可愛的石犬,參拜道上的石燈籠,遠遠與寺外的「鳥居」(日本神廟前牌坊)相望。而當年「豐田小學校」(今天的豐裡國小)裡,孩子們用來練劍道、無心插在地上的無鬚榕,長成了五十多棵茂密大樹。

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移民初期には、神社や学校などの重要建築は木造瓦葺きであったが、一般家屋は茅葺きの小屋だった。阿里山鉄道が開通し、阿里山のヒノキが伐採されるようになって初めて、今日も残るような木造家屋が建てられるようになったのである。壁は、竹を組んだ上に黄土とわらを混ぜた土で塗り固め、その上からヒノキの下見板を貼り付ける。家の周りには日本人が愛でたゲッキツで垣根をめぐらせ、庭には南洋のパンノキを植えた。これらの木々は今なお枝を茂らせている。

早期,除了神社、學校等重要建築為木造瓦房外,一般民居都是茅草頂木屋,阿里山鐵道開通後,檜木取得容易,才改成今天所見的日式宿舍建築式樣,牆壁以竹編加上黃土、稻草混合而成,外牆釘上一層檜木魚鱗板,房舍四周遍植日本人喜愛的七里香為隔籬,院內栽植引自南洋的麵包樹,如今都還生機盎然地長在這片土地上。

『花蓮港庁下の産業』によれば当時の豊田村には計911名、180戸近い日本人農家が生活し、近隣の吉野村、林田村と合計すると3386名に及んだという。
1945年、第二次世界大戦の終結で日本人は無条件降伏し、台湾は中華民国に返還される。台湾に骨を埋めると心に誓い、30年以上もこの地で汗水流してきた移民たちにとっては、まさに青天の霹靂であった。

根據《花蓮港廳下的產業》統計,當時的豐田村總共近180戶、911位日本農民居住,加上另外的吉野村、林田村,總共有3386人。
1945年二次世界大戰結束,日本無條件投降,將台灣交還中華民國。對於誓願「埋骨」台灣,在花蓮這塊處女地辛苦耕耘了三十多年的日本移民而言,無異是晴天霹靂。

台湾に残りたいという願いもむなしく、1946年3月、現金1000円とわずかな衣類の所持だけを許され、彼らは帰国しなければならなかった。仕方なく、小作や作男として働いていた台湾人に土地や財産を廉価で売り渡した。日本に帰れば、再び一からやり直しの日々が待っていた。

儘管他們強烈表達希望留在台灣的意願,然而1946年3月,在只能帶走1000日圓與少數衣物的條件下,農民們只能忍痛將土地、財產賤價賣給台灣的佃農、長工,回到一無所有的日本,從頭開始打拚。

日本人が去ったあとは田んぼや日本式家屋が残された。豊田移民村の物語はその後も、75%の客家人、25%の 南人(福建省南部からの移民の子孫)に引き継がれていく。1955年には新たな移民も加わった。中国大陸からベトナムへと戦争に赴き、フランス軍に捕らわれていた人々が、接収されて豊田村に移住してきたのである。また1980年代に豊田産の台湾玉(ジェイド)が色と質の良さで有名になった時代には、小規模ではあるが先住民アミ人の移住も盛んであった。この移民村には歴史にまつわる様々な物語が秘められている。

日本人退場,留下青蔥的水田與日式房舍。豐田移民村的故事,接著由75%的客家人,25%的閩南人,繼續移民故事的下一章。1955年,一批由中國大陸前往越南打戰,被法軍拘留在異地的雲南人,被接到豐田社區定居;1980年代,色青質軟,有「台灣玉」稱號的豐田玉盛產時,又有一小群阿美族人遷入。豐田移民村裡,隱藏著許多大時代動盪下的移民小故事。

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終わることのない物語
豊田生まれの日本人たちは、日本で「豊田会」を結成し、毎年5~6月には一団となって故郷の豊田を訪れる。一方、当時は日本人に雇われていた客家人、或いは現在、日本式家屋に暮らす人々が集まって「台湾豊田会」も作られ、日本の豊田会の人々をもてなしている。

永不結束的故事?
離開熟悉的豐田「故鄉」,那一群在豐田成長的日本人,在日本成立了「日本全國豐田會」,每年5、6月,避開颱風季節,他們總會專程組團回到豐田來看看自己的故鄉。而當初被雇用的客家人,或者今天住在日式房舍的台灣人,也成立了「台灣豐田會」,負責接待這一批因緣特殊的朋友。

そんなわけで、豊裡小学校の生徒たちはときどき校庭で、日本人のおじいさんが老樹を抱きしめ涙する光景を見かけることになる。或いは、かつて自分が暮らした家の名残を見出し、立ちつくしたまま長くそこを去れないでいる日本人の姿もある。

於是,豐裡國小的小朋友有時會看見,日本老爺爺抱著校園內的老樹垂淚,也有緬懷過去的日本人,只因為辨識出沒被改建拆毀的故居樑柱,就久久駐足、捨不得離開。

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近年は日本豊田会のメンバーも高齢化が進み、若い人でも70歳を超えるようになったため、豊田村訪問も2年に1回に改められた。参加者数も減少している。豊田会のメンバーが減るにつれ、豊田移民村の物語も歴史に埋没してしまうのだろうか。

近年來,日本豐田會的成員年事已高,年輕的成員也都70歲以上了,於是改成每兩年回來一次,而且人數越來越少。隨著豐田會成員的凋零,豐田移民村的故事似乎就將跟著不復記憶。

「豊田は移民の村です。私の父は雲南からやってきました」と言うのは、いかにもエキゾチックな容貌を持ち、台湾訛りの中国語を話す楊鈞弼さんで、豊田地区の総幹事を務める。日本人、客家人、 南人、雲南人、アミ人がこの土地に記してきた様々な物語が、豊田の特色になっていると語る。

「豐田是一個移民村,我的父親就來自雲南,」五官容貌「原味」十足,帶著台灣國語口音的社區總幹事楊鈞弼表示,日本人、客家人、閩南人、雲南人、阿美族人,在這塊土地上寫下不同的故事,成為豐田的特色。

歴史はもちろん過去のものとなる。だが、地元の地区協会によって、それらの歴史を整理し、記録する作業が進んでいる。たとえ月日は流れ去っても、それを代々語り継いでいけば、物語は決して終わることはないのである。(台湾の雑誌 「光華」より) 

一代一代人終將過去,然而在社區協會的整理下,相關移民的故事一本本撰寫出來。儘管歲月已老,但在代代講述中,故事將永不結束。
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by officemei | 2008-10-01 08:51 | ■台灣