■万事万物、人的素質第一

新聞やまちの大きな看板(評語塔)で見かけるスローガンだ。
そのたびに私は苦虫を噛み潰したような気持ちになり、そのあと幾許かの悲しさを覚え、ふと我に帰り、私は中国人でもないのになぜこんな気持ちになるのだろうかと苦笑する。
そもそも高校時代に「中国かぶれ」になった私は、当時文革さなかの中国で必ず叫ばれた、「為人民服務」のスローガンにころっとまいってしまった。
なんと素晴らしいことだろうか!
単細胞の私は中国を理想化して見ていた。

その後北京に暮らすこととなったが、着いて3日にして実情を理解し、ショックと憤りを覚えた。

スローガンというものは、単なる目標であり、決して出来上がったものを誇らしく謳い上げているものではない、ということだ。
当然ながら、スローガンは現状不可能、不実行なものを達成するための「鼓舞」である。
或いはこうとも言える。
スローガンにある「人」「人民」を権力保持者・指導者・共産党幹部に置き換えれば、正鵠を射ているかもしれない。

中国における「人」とは「選民」という意味なのだ。

中国は「法治」ではなく「人治」の社会だ。今、徐々に「法治」になりつつあるといった意見もあるが、最後の手段・決定権は今もって法ではなく「人」だ。
この「人」とは、人民ではなく「えらい人」なのだ。この現状は、私のような小市民には許容範囲を超えて理解もできないし不快感すら覚える。

とは言え、○○の深情け。
私はそんな「中国」でも「好き」だから仕様が無い。

「教育は国の本、国家百年の大計」
確かにそう思う。
酒の芳醇さと同じように、人の素養は長い歳月をかけて醸造される。
無知は不幸に繋がり、偏った教育を受けた者の思考・行動には歪みがある。

私は仕事の関係で中国の高卒の若者、大学生と話す機会が多い。
これまで既に600名以上の若者と面談した計算になる。
チベット、青海、新疆、海南、雲南以外の殆どの省や地域の学生に会った。

高校には普通科と職業・技術科(中専)があり、明らかに資質が違う。
大学も4年制本科から3年制大専、自考大学、成人大学や通信教育課程やら複雑で、日本の大学制度と単純に比較ができない。
日本の大学、短大、高専、各種専門学校、技能訓練校を含めたものが「大学」と理解したほうがいい。

大学本科学生は実に優秀だ。
キングスイングリッシュの正確な発音で英語を話せる者や、国際事情や経済動向を的確に把握し論じることができる者、古典の造詣が深い者等、知的センス溢れる者も多い。日本の学生などとてもたちうちできない知識だ。

私の接触した学生に限って言えば、「できる者とできない者」の学力差が極端で、中間層(普通程度の知識)が意外と少ないように思う。

例えば中専(職業・技術科高校)卒の知識。
英語;10から1までの数字を逆に数えられない、身体の簡単な部位を言えない。
地理;アメリカやイギリス等主要国の首都すら知らない、
歴史;1949年10月1日共和国成立は知っていても、1945年8月15日が何の日か答えられない者がいる。嘗ての国都やその王朝名を知らない。ましてや世界史の範疇になるとまったくわからない。
算数(数学ではない);三角形の面積がもとめられない者もいる。簡単な体積のもとめかたを知らない者が多い。
理科;基本的な元素記号も知らない。
国語(古典);有名な論語の一節、或いは唐詩の一句を教えてと言っても覚えていない。

この差はいったいどういうことなのだろうか?
日本の教育が秀でているとはお世辞にも言えないが、少なくとも上記のような最低限の基礎知識はあるように思うが、実態は如何なものか。

別にこんなことを知らなくても生きていける、と言われればそうなのだが。
要はその程度の知識すら無い者が結構多いということだ。
もちろん「頭がいい」と「勉強ができる」とは意味が違う。
日本では、社会への適応、人間関係の構築、先見性、分析、決断等の能力を発揮し、学生時代の劣等生が優秀な社会人になっている例は多い。

中国は学歴偏重社会、「落ちこぼれ」にはかまっていられないのだろうか。
大卒と高卒の社会的待遇格差は大きい。
より良い生活を求めるためには学歴が必要。
「文化」「ゆとり」は一定以上の経済基盤が確保された者たちが享受できるもの。

今日のような激しい競争社会の中で、「上」を目指す者と、「淘汰」され「うだつ」のあがらぬ者との差が、教育内容の結果だとすれば悲劇だ。

諦観に充ちた顔つきの若者を見るのは辛い。
短絡思考で人生を誤まる若者は惜しい。
無知による非道徳的な言動には、不快感を感じることがある。
エチケット、倫理に欠ける振る舞いは腹立たしい。
それもこれも、すべて教育がどうあるべきかに起因する。


(追加;参考)
2006年5月22日 世界鑑測 中国・キタムラレポートより
景気が良くとも、「新卒失業者」100万人

中国の学校制度では、大学院、大学、専門学校といった高等教育機関を『高等学校』に分類し、『中学校』の分類に「高級中学」と呼ばれる高校や「初級中学」と呼ばれる中学、更に「職業中学」(高校・中学)が含まれる。
ちなみに、中国の標準的学校制度は日本と同じく義務教育の小学6年・中学3年、更に高校3年、大学4年の六三三四制である。
中華人民共和国が成立した1949年の時点では、この『高等学校』は全国に205カ所しかなく、在校生はたったの11.6万人に過ぎなかった。その後、学校数はかつての日本で雨後のタケノコのように設立された駅弁大学よろしく年々増加し、「普通高等学校」に分類される大学だけでも、1990年には1075校だったものが、2005年には1778校にまで増大している。
中国の大学は1999年に募集人数を前年比45万人増と大幅に拡大したが、その後もこの傾向は続いており、2002年の卒業生が145万人であったのに対して、2003年212万人、2004年280万人、2005年338万人と増大を重ね、2006年の大学卒業生は413万人になる予定である。
極めて厳しい大学卒業生の就職戦線
経済発展の著しい中国ではあるが、大学卒業生の就職戦線は極めて厳しく、卒業生の増大に伴う新卒者の失業者数は大幅に増大している。2002年に37万人であった大学の新卒失業者は、2005年には79万人にまで拡大している。まさに、『大学は出たけれど』という小津安二郎監督が1929(昭和4)年に制作した映画のタイトルと同じ現象が起こっている。
しかし、小津監督の映画は昭和初期の長く続いた厳しい不況を背景にしたものであったが、中国の場合は好景気に沸いており、状況が正反対であることは興味深い。
中国政府の就職関連データによれば、2006年に都市で就職を必要とする人数は約2500万人(内訳:新規労働者=新卒者 900万人、都市部登録失業者840万人、一時帰休者460万人、農村からの出稼ぎや退役軍人300万人)であるのに対して、都市部の新規雇用数は1100万人で、最終的には1400万人が余剰労働力となり就職できないと予測している。
2006年の大学卒業予定者410万人の全員が都市部での就職を希望するわけではないと思うが、現在の都市と農村の格差を考えれば、都市での就職を望むのが人情であり、相当部分の学生は900万人の新規労働者の一員として就職戦線に参加することになる。
2006年の大学新卒の失業者は2005年の79万人を上回り、恐らく100万人に到達しよう。
天安門事件が起こった1989年当時の大学卒業生は全国で58万人程度に過ぎず、稀少価値があり、大学卒業の肩書はエリートとしての出世の礎であった。ただし、当時は国家が大学の学費を補助していたため、大学卒業生には国家が就職先を指定する「分配制度」という規定があり、有力者にコネがあるとか運の良い人たちは都会に残れたが、コネもなく運も悪い人たちは泣く泣く農村に就職させられた。
この分配制度は1989年に「学生の職業自由選択、企業の採用自由選択」が特定地域で試験的に認められたのを皮切りに徐々に全国へ波及し、最終的に大学卒業生は就職の自由を勝ち取った。
中国が経済発展の歩調を速める中で大学卒業生の需要は極めて大きく、新卒の失業者などはあり得ない状況が続いていた。外資系企業による採用も増えてはいる。だが、赤字を抱える国有企業の整理による失業者の増加、大学入学枠の大幅拡大に伴う「大学生」の急増などの理由で、大学卒業生の職場は徐々に狭きものとなり、いつの間にか新卒失業者が大量に生み出されるようになっていった。
よく使う中国語に「供不応求」(供給が需要に応じられない)という言葉があるが、今の中国の就職戦線はこれとは逆で学生の供給過剰の状況にある。
中国の大学の卒業式は7月であり、2006年の大学卒業予定者の就職戦線は今まさに最終段階にある。あるメディアがこれら大学卒業予定者を対象に行った就職状況の調査によって、4月の時点ですでに就職を決めている人の月給は、1000元(約1万5000円)未満が13.1%、1000~1500元(約2万3000円)以下が34%であり、まだ就職できていない人の30.7%が最初の仕事の月給は1000~1500元であると考えていることが判明した。
それでは、月給1500元以下ということはどういうことを意味するのか。
湖南省統計局のデータによれば、2005年における湖南省の労働者の平均年収を12カ月で割った平均月収は1305元、省都である長沙市の平均月収は1792元である。かつては大学卒業の学士様はエリートとして扱われたが、今やその初任給は中卒者や高卒者を含めた労働者の平均月収にも及ばない。
学歴無用論が台頭?
北京の新聞「北京晩報」は2005年8月22日付の記事で、北京の大卒者の初任給は1500~2000元と報じているが、2006年の初任給は更に下がっているようで、中国はまさに『大学は出たけれど』時代に突入したようである。
大学の学費が安ければ、初任給が安いことも多少は納得がいくかもしれないが、中国の学費は庶民の給与水準から考えると極めて高い。大学の学費については次回に譲るが、大金を費やして「大学は出たけれど」では、算盤に合わない。
これでは教育熱も冷めようというもので、中国では学歴無用論が台頭するようになるかもしれない。
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