■威海・文登・煙台

2006年5月12日
早朝、曇り。
ここは威海。
窓から海が見える。
昨夜、陽光大廈(サンシャインホテル)に泊。
浴室の木桶浴槽にはたまげた。何で?
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例によって、室内にはちゃんとコンドーム、催淫スプレー、女性用はではで下着などの有料グッズ。
ちゃんとしたホテルなのにこうだ。
煙台でもそうだった。
すべてメイド・イン・コーリア。

さて、威海。
威海は山東半島の東部に位置する。
北東南は黄海に面し、北方は遼東半島と相対し、東方は朝鮮半島に近い。

山東半島最東端の成山角(岬)は古来から朝鮮半島との交通の要衝であった。
唐代以来、登州東部の文登、栄成の領域で、明代の1398年倭寇防衛のため、山東半島に成山衛、靖海衛とともに威海衛が設置されたのが始まり。

北岸の市区部の湾内には劉公島が浮かぶ。
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清末には李鴻章率いる北洋海軍基地(北洋水師都督署)となり、水師学堂も併設。
当時、清国海軍の一大拠点となる。
現在は、甲午戦争(日清戦争)博物館、同海戦館が開設されている。

日清戦争末期、丁汝昌率いる清国北洋艦隊は威海衛湾内に閉じこもったが、日本海軍の攻撃を受けて壊滅。下関条約(馬関条約)締結後、日本が一時占領。

1898年、英国が清国から租借し英国海軍の管轄下に置かれ、ポート・エドワードと呼ばれた。
1900年には行政長官署が設置されて英国植民地省の管轄下に入る。
ラストエンペラー溥儀の家庭教師をつとめた英国の中国学者レジナルド・ジョンストンが1926年から行政長官をつとめた。

1929年蒋介石の南京国民政府が成立すると、中国返還が決まり、1930年10月1日返還式が行われる。

日中戦争では再び日本軍が占領。

1945年国民政府の下で威海衛市が成立し、中華人民共和国成立後の1950年、威海市と改名。

中韓国交樹立(1992年)以前の1990年には大韓民国仁川広域市との直通フェリー「金橋」号が就航し、韓国との関係を深めた。仁川港まで14時間の航海である。
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改革開放以来、外国投資を集め、中韓国交樹立後は韓国からの直接投資が集中した。
このため2003年の輸出額は25.3億ドルに達し、外国からの投資額の50%以上を韓国資本が占める。在住韓国人も多い。

又、威海港は青島に司令部を置く中国人民解放軍海軍・北海艦隊の重要な基地でもある。渤海湾南部で開発が進む海底油田地帯にも近い。東部の栄成市は中国最大の漁獲量を誇る。

午前中、「威海外国語進修学院」を訪問後、南へ下って文登へ至る。
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道中といえば際限無くどこまでも続く山、そして所々に平屋の民家と畑。
道路補修中につき未舗装の迂回路をバウンドを繰り返しながら走る。
訪問先の「文登中日友好日語中等専業学校」の周囲は民家もまばらで、商業施設などまったく無かった。
北から市域に入るとすぐに開発地区が現われ、多少は整然とした工業団地が続く。
恐らくその一角にあって、まちの中心地からは離れているようだ。
そこまでしか行かなかったので、文登というまちの様子がわからない。
しかし南は必ず海に接しているはずだ。
ここは山東半島の東端にあたり、遣唐船の北ルートはこの辺りがゴールになっていたからだ。

平安時代の僧円仁は、遣唐使の一員として中国に渡り、この近くにあった赤山法花院に滞在する。彼の「入唐求法巡礼行記」に文登の地名が記されている。
残念ながら、私はそれ以外にこの地の知識を持っていない。

今日一日で、威海から文登、更に煙台と廻った。
このルートは9月にも再度来ることになるだろう。実際相当きつい。

文登からは再度北上し、黄海に沿った高速道路を煙台に向かう。
この道はほぼ一直線。ずう~っと一直線、遮るものが無いので地平線まで見える。

煙台では三聯韓日語学校を訪問、数十名の学生を前に独演会・・・
そのあと郷里の先輩、王さんと会食。
夜は煙台民航大廈に泊。
あ~あ、ここにもあのグッズがある・・・
http://officemei.exblog.jp/1355758/
http://officemei.exblog.jp/1355877#1355877_1
明日は青島へ向かう。
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by officemei | 2006-05-12 07:45 | ■山東