■円環

幕を閉じた「円環」  
戀戀圓環  美食原味站即將消失

台北市で最も歴史ある夜市「建成円環」だが、改築後も商売が振るわず人気を回復できなかったために、7月初めに完全に営業が打ち切られた。1月の光華商場の取り壊しに続き、また一つ懐かしい台北の顔が消えていったのである。

堪稱台北市最悠久的夜市──「建成圓環」,由於改建後生意每下愈況,無法挽回消失的人氣,7月初正式拉下鐵門,結束營業。這是繼今年元月光華商場拆除後,又一個老台北消失了。

3年前、台北市は2億元を投じ、老朽化した夜市「円環」を取り壊して改築し、特色ある飲食店や業者を招致した。しかし人が集まらず、商売も振るわなかった。台北市では昨年の年末、計画の中断を決定、業者と早めに解約し、7月2日に全面的に営業を終了することになった。今後、建成円環は美食推進センターに生まれ変わる。こうして100年も続いた夜市の灯は消えた。

3年前,台北市政府斥資2億元將老舊圓環拆除後重建,同時引進具有特色的美食業者進駐,但是始終無法帶來人潮,生意未見起色。市府去年底即著手計畫收回,與攤商提前解約,7月2日正式打烊收攤,未來建成圓環將轉型成美食推廣中心。近百年的夜市熄燈,走入歷史。

円環の最後の日、地元や地方から多くの人が訪れ、最後にもう一度、円環の懐かしい味を楽しんでいった。円環の牡蠣オムレツの老舗「順発号仔蚵煎」の主人によると、再建後の円環は風通しが悪く、空気がこもりやすい設計で、人を呼び込めなかったと言う。一旦はここを離れるが、将来チャンスがあれば、また必ず戻ってきたいそうだ。

圓環結束當晚,許多本地及外來的民眾,不約而同齊聚一堂,最後再回味一次圓環的美食小吃。圓環老店「順發號蚵仔煎」老闆感慨地說,改建後的圓環動線不良、空氣悶熱,無法吸引顧客,不得已忍痛離開,但未來如有機會,他們一定會回來。

円環の営業終了前、馬英九台北市長は店を出していた業者に対し、円環再建は台北市の「あまりよくない」施政だったとして陳謝した。古い市場の改装は、確かに難しい。市長は、専門のコンサルティング会社に委託し、新たに円環の今後の方針を検討するという。また年末までには2度の大規模なグルメフェアを開催し、人を集めようと企画中だ。陳玉梅・台北市議会議員はウェブサイト「恋恋円環」を作成し、円環に関する文章や画像、動画などの資料を広く募って、円環の歴史を皆で記していこうとしている。

在圓環結束營業前,台北市長馬英九曾前往向攤商致意,他承認改建圓環是市政「做得比較不好的地方」,舊市場改建的確有一定的難度,他會找專業的顧問公司,重新評估建成圓環未來的走向,年底前將舉辦2場大型美食展,希望能吸引人潮回流。台北市議員陳玉梅特別製作「戀戀圓環」網站,向各界廣徵文章、照片、影像等資訊,讓大家一起來書寫圓環的歷史。

台北で育った人なら誰でも円環の名は知っているし、よそから台北へ来た人も円環に慣れ親しんでいた。それは台北の庶民の食文化の中心だったのである。

凡是生長在台北的人,不論男女老幼都知道「圓環」的大名,到過台北的外地人,對圓環也不陌生,它是台北市庶民生活的飲食中心。

建成円環(ロータリー)は日本時代に、欧米の都市の形式を手本に、バロック調のスタイルや図案をもとに設計された。時代的な背景から言えば、西門や東門など1900年代初期のロータリーと大きな差はない。建成円環が当初は公園、その後は午後のマーケット、またその後にはにぎわいのある屋台街になったのは、特殊な環境に負うところが大きい。

建成圓環係日人統治時,移植歐美城市規劃的範型,仿巴洛克古典形式、圖案規劃設計下的產物,其形成背景與西門、東門等早期的圓環並無太大的差異。而建成圓環由昔日的公園、午後市集,演變成為日後人潮擁擠的小吃夜市,則是拜其特殊環境之賜。

建成円環の面積は1963平方キロあり、南京西路、重慶北路、天水路、寧夏路などがここで交差している。1935年、台北で大地震が起き、建成円環は避難場所に当てられた。震災後、周囲に2階建ての建物が建設され、住民も次第に増えていった。日本人はここに大きなロータリーを作り、周囲をゲッキツの木で囲み、その木の間にガジュマルも植樹した。当時の人々はここを「円公園」と呼んだ。その中には石のベンチが設置され、人々は涼んだり将棋をしたり、子供を遊ばせたりして、憩いの一時を過ごした。

建成圓環面積達1963平方公尺,被南京西路、重慶北路、天水路、寧夏路團團圍住。1935年,台北發生大地震,建成圓環權充避難空地;震災後周圍開始興建2層樓建築物,居民日漸增加,日人在該地劃出一個大圓圈,四周栽種七里香,中間植有榕樹,當時人們稱為「圓公園」,裡面還設有石凳,供人們乘涼、下棋及小孩嬉戲。

その後、果物の屋台(一説にはエビ麺売り)が木の下で商売を始め、次第に屋台街を形成していった。総督府は何度も取り締まったが、人出は増えるばかりで、最後には当局と協議して「台北行商組合円環夜市場」が組織されることになった。営業時間は午後5時から12時、鈴の音が合図として鳴らされ、合法的な夜市となったのである。

之後,有一水果攤(一說蝦仔麵販)至樹下設攤販賣,逐漸形成露天攤販區,日本政府曾多次取締,但人潮不減反而增加,最後日人遂與攤販協議組織了「台北行商組合圓環夜市場」,營業時間從下午5點到12點,並以搖鈴為訊號,成為一個合法的夜市。

1941年、太平洋戦争が勃発すると、日本総督府は夜間に灯りをつけることを禁止した。これによって夜市も大きな打撃を受け、それまでのにぎわいはなくなった。続いて、円環に2つの貯水池と周囲を囲む防空壕が掘られ、円環は荒地となってしまった。だが戦争が終わると、屋台がまた戻ってきて、防空壕や貯水池を埋め直し、再び店を出すようになった。列になった屋台が新たに円環に現れ、電灯はまぶしいほど輝いていた。夏の猛暑の中、涼みがてら散歩や食事に訪れる人が増え、夜市は身動きできないほどのにぎわいとなった。

1941年,太平洋戰爭爆發,日本政府規定夜間不准點燈,夜市活動大受限制,不復往日的繁榮。接著,又把圓環掘成2個大儲水池和一圈圈的防空壕,圓環變成了荒涼之地。直到日本戰敗投降,攤販才重回舊地,拆洞填池,再設露天攤位;一排排的攤販重新在圓環站了起來,燈火亮如白晝。炎夏季節,去那裡閒逛看熱鬧吃東西的人,將夜市擠得水洩不通。

1949年、国民党政府が台湾へ来ると、円環の周囲の建物も増え、重慶北路の両側にも屋台が立つようになった。その後、舗装された道路に屋台が出て、南京西路、保安街、帰綏街など近くの商店や軽食の屋台などと一緒になってショッピングエリアを形成するようになった。食べ物、洋服、日用品が中心である。1950年代から70年代にかけて、円環のにぎわいは龍山寺と肩を並べるものとなり、「南に龍山寺あり、北に円環あり」と称された。

1949年國民政府遷台後,圓環小販隨四周建築增加而擴散到重慶北路兩旁設攤。之後並將馬路舖上柏油、搭起攤位,與南京西路、保安街、歸綏街等附近商店、小吃攤形成「圓環商圈」,內容以飲食、服飾百貨、家庭用品為主。1950年代至70年代,圓環繁榮盛況與龍山寺齊名,號稱「南有龍山寺,北有圓環 」。

1980年代、都市再開発に伴い、台北市は開発の重点を東区に移した。さらに士林、公館など新たな夜市も台頭し、円環夜市の規模は縮小して、経済活動の規模も小さくなり、かつてのにぎわいはなくなっていった。そこで最後に台北市がてこ入れすることになったのである。だが有名建築士である李祖原氏が設計を担当し、大きな期待が寄せられた再建計画は、屋台の業者や一般消費者からの意見を取り入れなかったため、現代的な外観となったものの、懐かしい味わいを失った。ついに姿を消すことになって心を痛めているのは、歴史の研究者も一般市民も同じなのではないだろうか。

1980年代,隨著都市更新,台北市發展重心逐漸轉移到東區,加上士林、公館等夜市興起,圓環夜市規模縮小,商業功能及活動強度日漸萎縮,繁華不再,最後由市府接手規劃重建。沒想到這個由名建築師李祖原設計、被寄予厚望的重建計劃,卻因為沒有聽取在地攤商和客人的意見,空有現代化外觀而失去了「古早味」,終至黯然收攤,讓文史學者大感痛心,也讓民眾悵惘不已。
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by officemei | 2006-09-19 16:14 | ■台灣