■女真人来り去る

06/10/20
今私は瀋陽にいる。
嘗て日本の傀儡国家であった満州国の奉天。
清朝ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の故地。
歴史をもっと遡ってみたい。
「手掘り司馬遼太郎」に「韃靼疾風録」を紹介した文章がある。
この本は清朝建国草創期を背景にしている。
その一部を要約。

17世紀初頭、わが国では徳川の幕藩体制も漸くに固まりつつある頃、大陸では明王朝がその終末期を迎え、万里の長城の東、満州の嚝野では韃靼の英雄アイシンギョロ・ヌルハチが女真族を統一し、後金という国を建国する。

古くから漢族は、東の長城の向こうに住む人々を東胡、或いは満韃子と呼び卑しめてきた。彼らは女真族といわれる民族で、今の東北三省、旧満州あたりで狩猟・農耕で生計を立てていた。
この民族は中国史上たびたび東北の国境を侵したが、北から侵入してくる遊牧騎馬民族のモンゴル族と決定的に違うのは、女真族たちが定住生活を営んでいたことだ。

この時代、彼らは農業もやっている。麦や粟を作っている。ただし農業はあくまでも補助的な生活手段で、主として奴隷~朝鮮人や漢人の捕虜~を連れてきて農業をやらせたらしい。自分たちは広大な森林地帯に散在して主に騎馬による狩猟を行っていた。
その数50万から60万。

モンゴル人といえば、女真人は彼らの戦闘力を恐れる。モンゴル人は遊牧をし、決して農耕せず、間違っても豚を飼うようなことはしない。一方、女真人は遊牧をせず、狩猟をし、副業のようにして農耕をする。更には農耕に付き物の家畜として豚を飼う。これらの点で、このふたつの民族は決定的に違っている。

「マンジは(女真族)は豚を飼う。ばかの証拠だ」とモンゴル人は言う。いざ戦闘になればモンゴル人は遊牧状態の中からすぐさま騎兵集団が編成され、疾風のように敵を襲い、また元の滅亡のときがそうであったように、敗れたと見れば雁が帰るように自分たちの草原に帰ってしまう。これに対し、女真族は豚を飼ったがために移動が遅く、更には農耕地を持ったがために土地への執着ができ、軽快な部族移動ができなくなった。
が、今は違う。

その女真人に英雄が出現した。彼らが歴史の表舞台に躍り出るのは、英雄アイシンギョロ・ヌルハチの登場による。
ヌルハチは、一部族長から身を起こして、女真諸部を統一し、汗の位に就く。そして国号を後金と称す。彼は、統一した女真の諸部族を満州八旗に編成し直す。これは狩猟の集団がそのまま戦闘集団、八つの軍団になったということを意味している。この強力な戦闘集団を従えて、1619年、サルフの戦いで、明・朝鮮の連合軍を大いに破り、これをもって万里の長城の東、遼東・遼西地域を支配下に治める。その後は清と国名を改め山海関を越え全中国の統一を果たした。

その女真の都・瀋陽。
嘗て壮大な歴史ロマンがこの地にあった・・・
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by officemei | 2006-10-23 07:24 | ■遼寧