■香港について

来年2007年、香港が中国に返還されてまる10年が経過する。
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96年末から97年初にかけて、ニューイヤーを香港で過ごした。「歴史的な年」の香港を、子供たちの胸に刻ませようと連れて行ったが、親の思いは自己満足に終わる。

九龍公園で息子はボール遊び(サッカー)に興じ、娘は星光大道で拗ねてしまってずっと動かなかったり。10年を経て、娘は24歳・二児の母、息子は19歳・この秋から上海外国語大学に留学した。

あとから振り返ってみれば、10年の月日はあっという間だ。

そう考えてみると、青春時代に北京で過ごしたあの頃も30年余り前のことだが、いまだ記憶に鮮やかだ。とするならば、半世紀、一世紀といった時の流れもそんなに長いタームではないと感じる。

e0094583_18394775.jpg浅田次郎の「蒼穹の昴」は、清朝末期の混沌が描かれているが、当時の99年租借に関する文章が非常に味わい深いので、ちょっと長いが引用してみた。
これはけっして遠い昔の出来事ではなく、ついこの間のことなのだ・・・


~「蒼穹の昴」(浅田次郎著)からの引用~
五月の陽の光がマロニエの葉を透かして差し入るテラスで、駐北京公使サー・クロード・マクドナルドは、やがてやって来る賓客を待っていた。
長い外交官生活の中で、これほど気の進まぬ交渉事はなかった。(中略)

九龍半島全体の租借交渉の全権は、彼の手に委ねられていた。この歴史的な仕事を命ぜられた時から、サー・マクドナルドは過去半世紀にわたる香港の歴史について綿密に調べ上げた。大英帝国全権としての使命を完遂するため、というより、どこかに彼自身が納得のいく正義を発見したかったからである。

しかし、香港の英国植民地を一挙に十倍の359平方マイルに拡大するという事案の合理的な根拠は、歴史上のどこにも見出すことはできなかった。
この期に及んでも公使は、正義の不在について悩み続けていた。(中略)

またひとしきり溜息をついたあとで、サー・マクドナルドは木漏れ日を見上げながら、ロンドンの古い流行歌を口ずさんだ。
“You can go to HongKong for me・・・”
私のためなら香港にだって行ってくれるわよね・・・つまり、わずか半世紀前の香港は、そんな流行歌に唄われるほどの、地の崖の貧しい町であった。

花崗岩の山に囲まれた狭小な土地であり、要塞にも軍港にも適さず、支那大陸の南端の僻地で商業地にもなり得ない。当時の外相サー・パーマストンをして、「不毛の島」と呼ばしめたほどの土地なのだ。

ポルトガルのマカオ経営に対抗するために、イギリスは対岸の小さな港町を清国からもぎ取ったのである。

その名の通り、もとは美しい、平和な港であった。
広東や広西で産出する香木の産出港であったから、そう呼ばれていたという。
たしかに香港は、かつて沈香や白檀や伽羅を北に向けて船積みする辺境の小さな港にすぎなかった。

イギリスはまず、この港を通じて茶葉の輸入を始めた。しかしやがて、インド産の阿片をこの港に送り込むようになった。イギリス人がこよなく愛する紅茶と同量の阿片が、貿易均等という妙な理由で堂々と担ぎこまれ、たちまち清国全土を侵して行った。

その結果、起こるべくして起こったアヘン戦争の正当性が、清国側にあることは勿論である。しかし、正義が常に勝つとは限らない。

大人が子供を殴り倒すような戦ののち、イギリスは強圧的に香港の割譲を迫り、清国が躊躇する間にいち早く大軍をヴィクトリア・ピークの麓に押し上げた。ユニオン・ジャックを翻らせ、全く一方的に香港島の領有を宣言したのであった。

断固抗議をする清国に対し、イギリスはさらに広東、上海へと軍を進め、とうとう翌る1842年8月、南京条約を締結して香港の領有を確定した。
列強が中国に対し一貫してとり続けた「砲艦外交」の、絵に描いたような成果であった。

どう考えても、そこには正義のかけらすらない。阿片の押し売りをきっかけにして戦をしかけ、国土を奪い、のみならず戦火に追われた流民たちを苦力に仕立て上げて、ゴールド・ラッシュに沸くアメリカやオーストラリアに売り飛ばした。そしてこの人身売買を「猪仔貿易」と呼んで憚らなかった。

これは歴史に残る暴挙だと、サー・マクドナルドは思う。そこには正義も道徳も、宗教的理由すらもない。ただ植民地経営によって国を富まそうとする、非人道的な、利己的な野心のあるばかりだ。

そして今また、「正しい防衛と居留民保護」の目的で、香港を十倍に拡張する交渉が始まる。無敵東洋艦隊の砲門を日本との戦に敗れて丸裸になったその沿岸に並べて。(中略)

サー・マクドナルドは懐中時計を取り出して時を見た。
間もなく恭親王(プリンス・クン)の馬車が、あの怖ろしい時代錯誤の行列を組んでやって来ることだろう。そしてたぶん、その老いた貴公子は、傍若無人な条件におののき、困り果てる。
旧知の仲である恭親王に、こんな砲艦外交を自らの責務として強要することになろうとは考えてもいなかった。辛い。まことに辛い。

「お出迎えを、サー」
秘書官がシルク・ハットを差し出しながら促した。
バラの垣根のめぐる庭に号令が谺し、儀仗の衛兵の捧げ銃をする小気味よい音が聴こえた。

「展拡香港界址専條」の清国全権団が到着した。
香港の総督府から派遣された副使と秘書官とを伴って車寄に出る。軍官の随員たちがマクドナルドを囲むようにして衛門に正対する。威儀を正してシルク・ハット冠り直したとたん、公使はステッキを取り落とした。

「おい、これはどういうことだ・・・」

門前で儀仗を受けているのは、恭親王奕訢ではなかった。精悍なアラブ馬に跨り、二頭の騎馬を従えた高官は、李鴻章だ。

「どうなっているんだ。プリンス・クンはどうなされた。まさかあの、李総督が全権というわけではあるまいな」

公使は鼻めがねを外して目をこすった。秘書官はあんぐりと口を開けたまま、馬上で閲兵をする清朝の大礼服姿を見つめている。

「栄誉礼を受けているのですから、つまり、あの方が全権でしょう。」
「まずいぞ。おい、私はプレジデント・リーと交渉の席につくのか」

公使は取り乱した。国際的な評価によれば、李鴻章と恭親王では役者が何枚もちがう。天津総督時代の李の外交手腕は、各国外交官たちの間の伝説となっていた。彼だけは時代錯誤のマキャヴェリストではない。西洋を熟知し、鉄道と鉱山と強大な軍隊を持った、軍閥の領袖である。

「プレジデント・リーは引退したのではなかったのか」
「そのはず、ですが・・・」

マクドナルド公使はとっさに考えた。プレジデント・リーが清国全権なら、大英帝国側は北京駐在公使どころか、香港総督が全権でも釣り合わない。いや、本国から外務大臣首相を特命全権大使とした全権団がやって来なければ、会議が始まるはずはなかった。

「西太后か皇帝が来た方が、まだましだぞ」
「どういたします、公使」
若い秘書官は、閲兵をおえ蹄を鳴らして近付いてくる李鴻章の威風にすっかり怖気づいていた。

馬上の李鴻章は、帝国の最高官を示す九匹のうわばみを描いたシルクの大礼服を着ている。ビロードの冠には赤い珊瑚のボタンが輝き、大勲功を表す三眼の孔雀の羽が、まっしろな弁髪のうしろに揺れている。肩からさりげなく羽織った黄色い緞子のチョッキが、一代の皇帝のおそらく一枚しか下賜することのない貴い代物であることを、公使は知っていた。

その場で腰がくだけそうになる体をステッキで支えながら、公使は言った。
「どうします、だと? それは私の言うせりふだ。事前に何の連絡もなかったのかね」
「ありません。もし連絡が入ったところで、どうしようもないでしょう・・・うわあ、ごらん下さい公使。本物のプレジデント・リーですよ」
「そんなことは見ればわかる。もしネルソン提督でないとするなら、あれは正真正銘の李鴻章だ」

支那人としては珍しいぐらいの長身を馬上に凛と伸ばし、李鴻章は満面で微笑みながら車寄に轡を止めた。少しも年齢を感じさせぬ動作でひらりと馬から下りる。

「ごきげんよう、サー。お会いできて光栄です」
李鴻章はいきなり流暢な英語でそう言い、ピアニストのように痩せた大きな掌を、マクドナルドに向かって差し出した。
公使の胸は女王陛下の謁見を賜ったときと同じぐらいに高鳴った。

差し出された指先を軽く握ると、公使は迷わずに肩膝を地に折った。
「光栄です、閣下。プリンス・クンがお出ましになると聞き及んでおりましたので、いささか愕いております。これはいったい、どうしたことでしょうか」

李鴻章は思いがけずに強い力で、足元に跪いた公使の掌を握り返すと、ふいに笑顔を吹き消した。仮面を脱ぎ捨てたような厳しい表情に、英国人たちは慄え上がった。
「誰が来ようと、諸君らにとっては同じことではないか。東洋艦隊の砲門に、人間の見分けはつくまい」
誠実な外交官であるサー・マクドナルドは、そのままいつ卒倒してもふしぎではなかった。

「ジョークだよ、公使。恭殿下は体調がすぐれぬ。そこで私が急遽、代理全権に任命された。辞令をお見せしようかね」
「いえ、けっこうです、閣下。ともかく、中にお入り下さい」
イギリス全権団はまるで黒い羊の群れのように、李鴻章の後をうなだれてついて行った。

廊下を歩きながら、李鴻章は公館じゅうに響き渡るような大声で言った。
「ヴィクトリア女王はお待ちかねかな!」
公使は脂汗を拭った。返す言葉はない。

「そうか。ご病気とあらば仕方がない。かくいう私も、恭殿下の代理としてやって来たのだからな。それにしても、首相も閣僚も香港総督も全員ご病気とは、ロンドンではペストか天然痘でも流行しているのかね!」
「・・・李閣下」
と、マクドナルド公使はようやくの思いで、ほんの少しだけ抵抗した。

「閣下、英語はご不自由でございましょう。通辞もおりますから、どうかお国の言葉で」
「べつに不自由ではないよ。私にとっての英語は、香港の言葉よりも話しやすい。まったく南の方言は、同じ国とはいえ何が何だかさっぱりわからん。さっぱりな!」
「は?・・・そうなのですか」

李鴻章は鼻で嗤った。
「卿よ。君はジョークの通じぬ男だね。こういうとき、即座に切り返すユーモアがなければ、外交官としては失格だぞ」
李鴻章が花翎を翻して立ち止まると、羊の群れもみな停止した。草を喰むように俯いたシルク・ハットをひとつひとつ睨みつけて、李鴻章は罵った。
「どうした諸君。オクスフォードでは植民地経営学の講義はしても、ユーモアと皮肉は教えんのか!」
一声で、羊はみな石になった。(中略)

記者団がテラスを埋めつくすと、やがて会議は始まった。
サー・クロード・マクドナルド公使は緊張のあまり書類を棒読みにして、香港を十倍に拡張する事案の説明をした。

「卿よ。しっかりしたまえ。君のうしろには東洋艦隊がついている」
言い淀むたびに李鴻章の口からそんなことを言われれば、公使の咽はいよいよ引きつった。
「すなわちわが大英帝国は、当該地域の正しい防衛と居留民の保護のため・・・」
最も言いづらい部分を、公使はようやくの思いで口にした。

「ちょっと待てよ、公使」
はたして李鴻章は、黒繻子の袖を挙げて異を唱えた。
「卿の言う防衛とは、いったい誰に対しての防衛かね」

薄い白髭をたくわえた李の口元は笑っていた。それは、公使自身が最も怖れていた質問であった。答えを探しあぐねて、公使はしばらく沈黙した。

「言いたくないのなら、私から言おう」
李鴻章は膝を組みかえ、体をテラスに群がる外国人記者団に向けた。
「フランスの記者はおられるかね?」
「到!就在這児」
と、ル・モンド紙の記者が手を挙げた。
李鴻章は不器用で丁寧な河北語に微笑した。
「答えは英語でよろしい。さて、どうやら大英帝国は、君らの国が広州湾からやがて九龍半島を攻略するのではないかと、脅威に感じているらしい・・・合衆国の記者は?」
トーマス・バートンが「イエス・サー!」と先頭でペンを挙げた。
「やあ、トム。元気かね。君とはニコライ皇帝の戴冠式のとき以来になる。そろそろ頭を磨いて弁髪を結いたまえ。君には良く似合う」
「恐縮です、閣下」
誰も笑う者はいなかった。

「ところで、トム。先だってアメリカとスペインとの、フィリピン諸島の領有をめぐる戦争で、君のお国の海軍は九龍の根っこにあたる大鵬湾を根拠地としたね」
「はい、閣下。おっしゃる通りです」
「ヴィクトリア女王陛下は、そのことを危惧なさっておられるのだよ。つまり・・・イギリスの主張する防衛とは、フランスとアメリカに対するものだ。やれやれ、困ったものだな、ガキどもが他人の庭に勝手に入ってきて、喧嘩をしておる。言うにこと欠いて、それを家主に何とかしろと、要するにそういうことだな、これは」
李鴻章の英語は愕くほど正確だった。議場は静まり返った。

「ありのままに書きたまえ。李鴻章がそう言ったとな。私は諸君らのリベラリズムに大きく期待する」
フランス人記者が大声で同意を叫んだ。
「明白了!」

李鴻章は黙りこくるイギリス全権団を睥睨しながら続けた。
「私たちの家はこのところ少々貧乏をして、庭は荒れておる。塀もこわれてしまったから、君らがそこで遊ぶのは、許すとしよう。だが、勘ちがいをするな。ここは君らの家ではない。庭先はくれてやるのではなく、貸してやろう」

李鴻章の流暢な英語は、言い回しだけがひどく中国的だった。人々は言葉に秘められた意味をしばらく考えねばならなかった。
「それは閣下、割譲は許さぬ、という意味ですか」
マクドナルドは思いついた通りを訊ねた。
「さよう。君は鈍い男かと思ったが、案外クレヴァーだね。どうやらオクスフォードでは英語をちゃんと教えているらしい」
「租借という条件なら、よろしいのですか」
「不満か?」

マクドナルドは左右の副使の頭を集めて囁き合った。彼らの躊躇は身ぶり手ぶりからも明らかだった。
すると、李鴻章は突然、大きなあくびをした。

「つまらぬことで悩むな。私の立場というものも少しは考えてもらわねば困る」
公使たちはきょとんと顔を上げた。
「と、申されますと?」
「わからんかね。君らにとっては割譲を受けて英国領土とするのも、永久に租借するのも同じことだろう。家賃を払う気など毛頭なかろうし、返す気もないのだろうから。しかし、皇帝陛下に結果の報告をせねばならぬ私にとっては、大ちがいなのだよ。まさか女王にせがまれて領土をくれてやりましたとは言えまい」
イギリス人たちの溜息がひとつの声になった。

「それでよかろう。九龍半島には遠慮なくユニオン・ジャックを立てたまえ。それでアメリカもフランスも手出しはできまい。九龍の新界(ニューテリトリー)は君らのものだ。大英帝国はわが支那大陸において、点から面を所有する」
全権団は再び鳩首して意見を囁き合った。今度はそれぞれが肯いた。

「では閣下。永久租借という約定にご同意ねがえますか」
李鴻章は大仰に愕いたそぶりを見せて左右の随員を交互に見、それから声を立てて笑った。
「卿よ。まあ、現実にはそういうふうに解してもらってもいいのだがね。永久租借、という言葉は少しおかしいだろう。世界中が笑う」
「では、どのように。期限を明文化しなければ租借約款の意味をなしません」
「当然だ。しかし、永久という単位の数字はあるまい。そこで、だ・・・」

李鴻章は立ち上がった。その背丈の並はずれた高さに、人々はみな目をみはった。散策でもするように後ろ手を組み、仏頂面で椅子に座る副使たちの背後を歩きながら、プレジデント・リーは言った。

「わが国にはこうした場合、非常に便利な表現がある。それはこういうことだ。完全を百とする。百に届かぬ一歩は、九十九だ。すなわち九十九という数字は、わが国では永遠を意味する。しかも数字の九九と、永遠すなわち久久は同じ音を持つ。そしてこれを皇上に報告すれば、私は領土を奪われた責任を回避することもできる。租借は租借だからな。皇帝陛下も老臣たちも、暗黙のうちにみな私の立場を理解してくれるだろう。もちろん君らも議会から責められることはなかろう。まさかわが国が九十九年も持ちこたえるとは、誰ひとりとして考えはするまいからな。どうだね、名案だろう。そこで私は、この展拡香港界址専條の租借期限を、調印から数えて向こう九十九年間、すなわち西暦1997年6月末日とすることを提起する」
李鴻章の明晰さに対して、一斉に拍手と歓声が湧き起こった。

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テラスの最前列で、岡圭之介は熱心にメモをとりながら、隣のトーマス・バートンに囁いた。
「トム、すごいね。彼は外交の天才だ。いったいどうなることかと思ったが、これならたしかに八方丸く収まる。彼は中国人の大義名分とヨーロッパ人の合理性をともに満足させた」
トーマス・バートンはただひとり拍手もせず、メモもとらずに、人々の歓呼に応える李鴻章を見つめていた。

「どうしたんだよ、トム・・・」
正式調印を日取りの良い6月9日に決定すると、清国側の全権団はすみやかに退室した。紛糾すると思われた会議は、ものの15分で終わった。記者たちはインタビューをとるためにわれさきに玄関に向かって駆け出した。

「行こうよ、トム」
トーマス・バートンはテラスに根の生えたように動こうとしなかった。ただ黙って、拍手と喝采に送られて議場を後にする李鴻章の姿を見送っていた。
「たしかに、天才だ。いまプレジデント・リーの言ったことをただしく理解できた者は、ひとりもおるまい。たしかに、あの男は天才だ」
「どういうことだい」
トーマス・バートンは蝶ネクタイをくつろげながら、見てはならぬものを見てしまったように放心した顔を、岡に向けた。
「わからないか、ケイ。九十九年はたしかに永遠を意味する。世界中の誰にとっても、事実上の永遠だろう。だが、九十九年後の人々からみれば、今日という日はそれほど昔の話ではない」
「・・・よくわからないな」
「九十九年後に清国はあるまい。だが、政権はどこかに必ずある。支那という国土と支那人は必ず存在するんだ。そのときイギリスは大変な犠牲を払って香港を返還しなければなるまい。九十九年かかって肥やした香港のすべてを、その都市機能もろともに返さねばならないんだ」

岡圭之介は頭上にさざめくマロニエの葉叢を見上げた。木漏れ日が瞼を刺した。
「つまり、李鴻章が死んでも、条約は生き続けるんだな」
「そうだ。中国人は偉大だ。われわれが永遠だと信じて疑わぬ九十九年という時間も、プレジデント・リーにとっては、手帳に書いてある予定なんだ」
岡は、列強を庭先で遊んでいる子供にたとえた李鴻章の言葉を、ありありと思い出した。

西暦1997年・・・
そのときには、いまこの席に居合わせた人間たちの誰も生きてはいない。だが、九十九年という時間は確実に経過する。
香港が中国に返るその日、ユニオン・ジャックは総督府の屋根から降ろされ、李鴻章とサー・クロード・マクドナルドの取り交わしたセピア色の議定書は、彼らの子孫たちの手で反故にされる。
「5000年の歴史はだてじゃないね。やっぱり僕らは、庭先で遊んでいる子供かもしれない」
岡は降り注ぐ初夏の日差しを見上げて呟いた。
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by officemei | 2006-12-10 00:10 | ■港澳