■我は苦難の道を行く
1940年に南京国民政府を樹立した汪兆銘(精衛)の評価は、本人の理想とは逆に、大陸(共産党)と台湾(国民党)双方で、まさに「漢奸」以外の何者でもない。その政府は日本の傀儡政権であったからだ。
しかし、台湾の国民党党史館は歴代指導者の展示を行い、「漢奸」の扱いを受けていた汪兆銘を、孫文逝去後の国民党副総裁として紹介し注目されている。
孫文の遺書「革命未だ成らず」は、孫文の愛弟子である汪兆銘が記した。
若くして法政大学に学んだ汪兆銘は、孫文の遺志を継ぎ日本との和平を最後まで模索する。が、1944年名古屋で死去。
遺体は南京郊外の梅花山に葬られたが、戦争終結後、墓は爆破され遺体は長江に棄てられた。
上海、建国西路にある“建国幼児園”。一級幼稚園として有名なこの校舎は、汪兆銘の邸宅跡。
今、どこを見ても汪兆銘にまつわるものは残っていない。園児のはしゃぐ声だけだ。
歴史から抹殺されている・・・
彼の一生は、上坂冬子の著書「我は苦難の道を行く」に詳しい。