■我も越人の裔なり

浙江省の風景は何となく日本に似ているように思える。
遣唐使・勘合貿易・朱印船の目指した港・寧波から、奉化・紹興・杭州といったまちを歩いてみてそう感じた。
風景ばかりではない。人の顔相も似ている。
私はどこへ行っても「あんたどこの出身?」と聞かれ、「どこか当ててみてよ」と言えば、殆どが「浙江省辺り」と当て推量される。
日本人はポリネシア系か半島系か、さもなくば中国江南系なので、私のような顔つきはここ江南辺り(浙江省など)ならよく見るパターンの顔だ。

司馬遼太郎「この国のかたち」に“越と倭”に関する記載がある。
古代黄河文明圏、いわゆる中原の地では雑穀を食し、これに対し長江流域では稲作がおこなわれ、米を主食とする別系統の文化があった。
楚とよばれる非漢民族地帯で、その遥か源流は雲南にあり、その雲南の背後には、東南アジア・印度などの稲作地域が拡がっていた。したがってこの辺りは古代稲作文化圏の北限或いは東限の地と思われる。

春秋戦国(前770~前221)時代、楚は中原諸国を凌ぐ繁栄を迎える。
稲作により多くの人口を養うことができたのだろう。
長江下流においても水田が増え、やがて呉が勃興する。
ほぼ現在の江蘇省あたりで都を蘇州に置いた。
中原からみれば楚と同様に呉も蛮地で、男子はザンバラ髪で文身(いれずみ)をしていたらしい。
続いて呉の南、現在の浙江省あたりに越が興った。

楚、呉、越ともに、中原の言語とはちがい、古代タイ語系の語族だったとされる。
更に越より南、現在の江西省、福建省、広東省あたりには“百越”と呼ばれる雑多な稲作民族が暮らしていた。
「漢書」では交趾(現在のベトナム)から会稽までが百越の分布する所とあり、華南からインドシナ半島までが古代越人のテリトリーだったらしい。

越は会稽の恥を雪ぐで有名(臥薪嘗胆の故事)な越王勾践の死後、歴史の舞台からは消えていき、紀元前334年に楚に亡ぼされる。
越の滅亡後、その遺民たちが対馬海流に乗って九州に渡来し、古代日本に稲作をもたらしたのではないか、という想像は私にとって大きなロマンでもある。(越人だけが日本人の祖先ではないが)

「魏志倭人伝」に、男子は大小の区別なく、みな黥面文身(いれずみ)をし、好んで潜水し魚蛤を捕えると記載されているが、この記述は越人についての古い記述とそっくりで感動的ですらある、と司馬先生は記している。

越人の末裔である雲南省の少数民族と「魏志倭人伝」にある倭の風俗を見れば、この風俗の流れが、雲南から長江下流、さらに日本へと続いていたと思えば、感慨ひとしお・・・
我もおそらく越人の裔なり。

寧波プロモーションVIDEO;
動画はこちらへ
[PR]
by officemei | 2008-02-12 19:32 | ■浙江