■洛陽回想
洛陽の“牡丹”は夙に有名だ。
このまちは、古くから中国王朝の首都であった。
東周・後漢・曹操没後の魏・西晋・北魏・隋・後唐・・・
東に虎牢関、西に函谷関があり、古くより兵家必争の地。
三国志演義を読めば、後漢末の洛陽の荒廃、群雄割拠の様子が想像できる。
最近、「曹操残夢・魏の曹一族」(陳舜臣著)を読んだ。
曹操の息子、曹丕・曹植兄弟を軸に、魏王朝の興亡が描かれている。
文中、白馬寺にまつわる段がある。
以下抜粋~
魏王朝を開くという曹操の夢を、息子の丕は簡単に実現した。
さらに丕はこれまでの家庭の問題を、この機に一挙に片付けた。
正妻の甄氏は浮屠の教え(注;仏教)を、宮女の一人から教えられ、それにすっかりのめり込んでいた。
世から遁れるという魅力から、彼女はどうしても抜けられなかった。
「家を捨てる? それは難しいことじゃな。お前には子がいる。それまですてることができるのか?」
彼女は丕からそう言われて、「できます」と答えた。
「殺されてもよいのか?」
「本望でございます」
夫婦のあいだに、同じ問答がなんどもくり返された。
「奇妙な教えじゃな。わしもその教えをひとつ学んでみようかな。白馬寺の者たちは、昔からそれを奉じておったそうだ。聞けば、黄老の者とは、かなり説くところが似ておったというが」
丕はそう言って、やや首をかしげた。
黄老の者とは黄帝や老子の経典を奉じる者たちのことである。漢初は孔子や孟子より、黄老の教えが盛んであり、ことに後宮の女性たちに信者が多かったという。
武帝(在位、前141~前87)の時に儒が国教扱いになってから、黄老は下り坂になった。とはいえ武帝の即位した頃には、祖母に当たる竇太后が黄老の言を好み、儒術を悦ばなかったと記録されている。
朝廷は儒で運用されているが、民間では黄老が相変わらず盛んであった。
「老子」は哲学の書であるが、黄帝の術は実在したかどうか不確かな人物に仮託された俗信にちがいない。
白馬寺の西域の僧は、おもにこの地に在住する西域の人たちを相手に説法するので、いささかわかりにくい。遁世の思想は乱世によって形成されるのだろう。
こんなに乱れて定めのない世の中だから、そこから逃れて、清浄無垢の土地に行きたいと願うことになるのだ。
白馬寺の人たちは、西域の人のほかに信者として獲得した漢人とともに、戦場の後始末をするようになった。
その奉仕の実績が少数の漢人の心にくいこんだようである。
わたしもあんな仕事をしてみたい。この現世の汚れを、極楽に変える仕事を。
と、甄氏はねがうようになった。
さて、この白馬寺。
仏教伝来後、初めて建立された寺院である。
ちょうど後漢の時代だ。
この物語の魏王朝は後漢のあとだから、当時は仏教もまだ興隆期にいたっていなかった。
してみると私が白馬寺を訪れたのは、凡そ1900年後となり、そう考えると実に感慨深い。
“龍門石窟”
龍門の石窟は、北魏に始まり、北斉から隋・唐代にいたるまで、連綿と造営された。
私は1980年に訪れたことがある。
現地のガイドに勧められ、石窟の彫像に登って記念撮影をした。
今や世界遺産に登録されている、その「龍門石窟」にだ。
中国人の旅行客も同じように何の躊躇も無くやっていた。
当時の写真を見ると恥ずかしい、罰が当たりそうだ・・・
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