■国姓爺

e0094583_5283390.gif話はちょっと長くなるが。

中国と台湾を繋ぐ歴史上の人物がいる。
福建省厦門(アモイ)・鼓浪嶼(コロンス島)の一角には巨大な立像があって、記念館まで建っている。
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厦門は明王朝滅亡時、彼によって「思明州」と改名された。
思明とは明を思うということである。
厦門のメインストリートに「思明路」という長い街路があるが、これもその名残りだ。

彼の名を、鄭成功という。
“抗清復明”の英雄。

ここ数年、毎年4、5回福建を訪れ、日本留学を目指す学生と面談する機会があった。その数、延べ約1000名。
私はそのつど、ひとりひとりに次のような質問をする。
中国語でいいから、「郷里が生んだ歴史上の人物を一人挙げ、その人物について述べよ」。

結果は、鄭成功がほぼ50%、林則徐が40%、答えられない者が10%だった。
しかも、この二人に関する知識のほどは極めて初歩的で、歴史の教科書にせいぜい数行載っている程度だった。
まだこの二人の名を知っているだけ、ましなのかもしれない。
何といっても地元なのだから。

全国放映のTVドラマ「金婚」のあるシーンで、女学生と年寄りの会話があったのを覚えている。
「ねえ、おじいちゃん。その蒋介石ってどんな人?」。
共産党の中国とはいえ、蒋介石のことすら知らない若者がいることにおどろく。
中国の歴史教育とはその程度なのかもしれない。
もっとも、日本の若者だって東条英機を知らないかもしれないが。

さて、その鄭成功について述べた学生のうち、100%誰も知らなかったことがある。
彼らの言う民族の英雄・鄭成功、その母は日本人だった、と私が説明してやると、皆一様に驚いた。なかには「うそでしょ」と言う者までいた。


唐突ながら、私は司馬遼太郎の作品をこよなく愛している。
息子の名前も遼としたくらいだ。

私は暇さえあれば、中国の書店で歴史小説・紀行文学・外国文学(訳本)のコーナーを漁るが、これまで一冊も彼の作品の訳本にお目にかかったことはない。
村上春樹や渡辺淳一の著書が店頭に並んでいるにもかかわらず。

司馬が「台湾紀行」執筆などで、右翼作家と認定されているのだろうか?
渡辺淳一の軟弱文学が良くて、なんで司馬遼太郎はだめなのか?

「街道をゆく」シリーズの「江南のみち」「蜀と雲南のみち」「閩のみち」「台湾紀行」などは、特に中国人読者に読んでもらいたいと思う。

多分、日本人ならほとんどの人が彼の名前を知っているだろう。
台湾人も恐らく半数の人が彼の名前を知っていると思う。
中国では、ほとんど認知されていない・・・

司馬という名から、一般の中国人は彼を在日華僑かその末裔と思われるかもしれないが、生粋の日本人(関西人)、しかも祖籍は私と同郷で、ペンネームの司馬は彼が司馬遷を尊敬していたことに他ならない。

中国のことを、中国人以上に詳細、且つ客観的に論じることのできる背景には、その読書量がベースにあって、典拠の豊富さには実に驚かされる。
中国において、彼の作品の訳本が無い現状は実に残念・・・

司馬遼太郎の「街道をゆく」を読めば、実に様々な書物に目を通し、はるかに時空を俯瞰したのち、現地を旅していることがわかる。

何も知らなければ何も広がりはしない。
その土地にまつわる出来事や、歴史に現れた人物や事象を事前に知識として有していれば、旅に厚みが加わるものだ。

感性を潤すには、知識と体験に基づいた背景が要る。

実は、
司馬遼太郎の「台湾紀行」に、“海獠の貴公子”という一文がある。
鄭成功についての話だ。

以下、その文章の一部を引用し、中国語訳文を附す。





さて、私は台南にいる。
市内におけるオランダの旧蹟(同時に鄭成功の旧蹟)である赤嵌楼については、すでにふれた。
この境域にも、国家の祭壇にあげられた人物がいる。
四個の銅像が一群をなしており、そこに主役がいる。
鄭成功である。~中略~


話歸原題﹐我仍在台南。
有關市內的荷蘭古蹟(也是鄭成功的古蹟) 赤崁樓﹐前文已經提過。
這古蹟的周遭內﹐也有被捧上國家祭壇的人物。
四座銅像形成一群﹐其中的主角﹐正是鄭成功。
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鄭成功の父鄭芝龍についてふれておきたい。
明は海禁をもって国是とした。
“寸板トイヘドモ、海ニ下ル”ことを許さなかった。
この海禁が、かえって福建省海賊(武装した私貿易者)のむらがり出る事態をまねいた。
~中略~


在此想談談鄭成功的父親鄭芝龍這個人。
明朝時代﹐以海禁為國策。
“小至寸板下海” 也不被允許。
這項海禁﹐反而招致福建省海盜(武裝的私人貿易者)成群傾巢而出。

明末、私貿易者のことを“海獠”とよんだ。
獠というのは、野蛮人とか無法者といった意味で、ギャングという語感に似ていなくもない。


明末﹐稱私人貿易者為“海獠” 。
“獠” 意指野蠻人或無法無天的人。
其語感與暴力組織相似。

明末の“海獠”は、16世紀のポルトガル人、スペイン人、さらには17世紀のオランダ人たちの海上貿易に刺激されてさかんになった。
その交易圏は、日本、明、南方諸域におよび、15、6世紀には、日本の倭寇を巻きこんだ。


明末的“海獠” 是受到16世紀的葡萄牙人﹐西班牙人﹐以及17世紀的荷蘭人們的海上貿易刺激而猖獗起來的。
其交易圈擴及日本﹐明朝﹐南方諸域﹐在15﹐6世紀時﹐日本的倭寇也牽連在內。

明からみれば、オランダ人も一種の“海獠”だった。
17世紀にオランダ人が台湾を根拠地にして活躍しはじめると、福建省の海獠が、大いに活気づいた。


從明朝的立場看來﹐荷蘭亦屬一種“海獠”。
當17世紀荷蘭人把台灣作為根據地開始活躍時﹐正好給福建省的海獠注入很大的活力。

明はこれに手を焼き、海獠のなかでも知識人ともいうべき鄭芝龍を抱きこみ、官位をあたえた。
ついには、都督にした。
毒をもって毒を制したつもりだった。


明朝對這事態束手無策﹐於是籠絡海獠中算得上是知識分子的鄭芝龍﹐畀以官位。
末了還昇他為提督﹐打算以毒制毒。

鄭芝龍のほうもしたたかで、かれは自分の官権を私物化し、同業の海獠たちをつぎつぎに倒し、ついには富は王侯をしのぐといわれるまでになった。

鄭芝龍也非等閒之輩﹐他將自己的官權私有化﹐次第打倒同行的海獠們﹐最後集聚的財富﹐幾可凌駕王侯。

鄭芝龍にとって、得意先は、日本だった。
書籍、絵画、陶磁器などを日本に売り、日本から金銀や銅などを得た。


對鄭芝龍而言﹐他的貿易對象是日本。他將書籍﹐繪畫﹐陶瓷器等賣給日本﹐再從日本換取金銀或銅等。

日本のこのような“倭寇貿易”を、江戸初期まで一手にひきうけていたのが、肥前国(長崎県)平戸島の大名松浦氏だった。
江戸期の石高は、六万一千石である。


直到江戶初期為止﹐一手承攬這種“倭寇貿易” 的是肥前國(日本長崎縣)平戶島的諸侯松浦氏。
他江戶時期的俸祿是六萬一千石。

鄭芝龍は松浦氏と結び、平戸城下に屋敷も構えた。
やがて平戸の武士田川七左衛門の娘をめとり、児を儲けた。
のちの鄭成功である。
鄭成功は幼名を福松といい、生後六年まで平戸島東岸の川内の海で育った。


鄭芝龍與松浦勾結﹐在平戶城邑也建了宅邸。
不久﹐他娶了平戶的武士田串七左衛門的女兒﹐並生了孩子。
這就是後來的鄭成功。
鄭成功幼名為福松﹐誕生後六年間﹐在平戶島東岸的川內海邊長大。


私は、福松が育った平戸の川内湾に行ったことがある。
いまはさびれきっているが、17世紀の初頭までは平戸港の副港として栄えた。
鎖国までのあいだ、ここにオランダ船や明船が入り、オランダ商館の倉庫も設けられていた。


我曾去過福松生長的平戶川內灣。
如今雖然非常蕭條﹐但是直到17世紀初為止﹐是平戶港的副港﹐曾繁榮一時。
在鎖國以前﹐這裡有荷蘭船與明朝船進出﹐並設有荷蘭商館的倉庫。

浦の南東に小さな丘があり、土地の人は丸山とよんでいた。
ここに、遊郭があった。
鎖国後、幕府が海外貿易を長崎一港に限定したとき、平戸の丸山遊郭が長崎に移される。
平戸の丸山のほうは、もとの小丘陵にもどった。


海邊的東南方為一座小山丘﹐當地人叫它丸山。
此處曾是花街柳巷。
鎖國幕府限定長崎為唯一通商港口﹐丸山的妓館也就移到長崎。
平戶的丸山﹐又恢復成原來的小丘陵。

登ると、一祠があり、なんと鄭成功がまつられていた。
いま文献でしらべてみると、台南の鄭成功廟から分祀されたものだそうである。


爬上山丘一看﹐有一座祠堂﹐奉祭的竟然是鄭成功。
查閱現今的文獻﹐據稱是台灣的延平郡王祠分祀過來的。

鄭成功の母田川氏の名は、わからない。
マツともいう。


鄭成功的母親田川氏的名字﹐已不可考。
有一說是叫“松” 。

福住信邦氏の小説「鄭成功の母」でもそのようになっている。
同書の巻末に、鄭成功の末裔の会である「世界鄭氏宗親総会」理事の鄭萬枝氏が、あとがきを寄せている。
「作者である福住氏は、ヒロイン田川マツの血筋を引く子孫であります」とあって、歴史が息づいているかのようである。


福住信邦的小說「鄭成功之母」也是這麼稱呼。
該書卷末﹐附有鄭成功後裔組成的「世界鄭氏宗親總會」理事鄭萬枝先生的後記。
「作者福住先生﹐是流著女主人翁田川松血統的子孫」。
這樣的記述﹐仿彿使人感覺到活生生的歷史氣息。

鄭成功の悔しさは、その生涯のみじかさにある。わずか38年だった。
生後六年で平戸の母のもとを離れ、福建省安平鎮の海浜にある鄭氏の居城に住んだ。
1630年、日本の三代将軍家光の寛永七年のときである。
~中略~


鄭成功最令人惋惜的是他生命的短暫。
他得年僅三十有八。
六歲就離開平戶的媽媽身邊﹐住到福建省安平鎮海濱的鄭家城堡﹐時在1630年﹐正當日本第三代將軍德川家光的寬永七年。

安平鎮の居城では、鄭成功は学問ばかりしていたらしい。少年ながら、学問の国の明にあこがれを抱いていたかと思える。
生年14で南安県の学員生にえらばれ、とし20のとき、南京の大学に入った。


在安平鎮的城堡裡﹐鄭成功似乎一心向學﹐雖然年少﹐可以推想他憧憬著學問之國的明朝。
他十四歲獲選為南安縣的學員﹐若冠之年﹐進入南京的大學。

が、ほどなく向学の思いを断たざるをえなくなった。
彼が南京にいた1644年、明がにわかに亡んだのである。


但是沒過多久﹐他不得不中斷向學的心志。
因為1644年他在南京的這一年﹐大明王朝驟然亡國。

すでに明は末期状態にあり、流賊が各地に横行していた。
最後の皇帝である毅宗が勤王の義軍を募っても、応ずる者もいなかった。


明朝末年﹐流寇橫行各地。
最後的皇帝毅宗招募勤王的義軍﹐竟無人響應。

右のとし、李自成という流賊がにわかに北京城を攻めおとし、宮城に乱入した。
毅宗は幼い姫をみずから刺し、皇后とともに縊死した。
死に従ったのは、宦官ひとりだけだった。
~中略~


那年﹐流寇李自成突然攻陷北京城﹐闖入皇宮﹐毅宗親手刺死幼女後﹐與皇后同時投繯自縊﹐陪死的只有一個宦官而已。

当時、明と蛮域をへだてているのは長城だったが、これも役に立たなかった。
その最大の関門である山海関の扉を内側からひらいて異民族の清軍を導き入れたのは、関門を守る明の将軍だったのである。


當時﹐把明與番邦隔開的是長城﹐但它也仍然沒用。
長城最大的關卡是山海關﹐而打開城門﹐領異族清兵入關的﹐正是守關的明將。

清軍はたちまち李自成を討滅し、勢いを駆って大陸の征服に乗りだした。
明の諸将の多くが清に寝返り、異民族王朝の時代がはじまった。


清兵在轉眼間就攻滅李自成﹐乘勢長驅直入﹐開始征服大陸。
當時明朝諸將相繼倒戈﹐投降清軍﹐開始了異族統治的時代。

とはいえ、諸方に、明室の王族を擁して清軍に抵抗する勢力もあらわれた。
擁されたのは、“福王”という怠惰な王族だったが、ほどなくその抗清勢力が拠る南京が清軍に陥とされ、王も殺された。


儘管局勢如此﹐在各地仍有擁護明朝王室﹐抵抗清軍的勢力出現。
最先他們所擁立的是一名懶惰的王族“福王” ﹐隨後他們抗清所據守的南京﹐又被清兵攻佔﹐福王被殺。

ついで、“唐王”が擁され、福建省の福州に拠った。
擁したのは鄭芝龍らであった。
鄭成功は父に従ってこの残明の勢力のなかにいた。


接著推擁“唐王” ﹐據守福建省的福州。
擁立唐王的是鄭芝龍等人。
鄭成功追隨父親﹐加入殘明的勢力。

しかもかれは、“唐王”に愛された。
このことが、彼の命運をきめた。
“唐王”は生年わずか21の鄭成功に明の姓である朱姓をあたえ、忠孝伯に封じたのである。
以後、かれは“国姓爺”とよばれることになる。


而且他深為唐王所喜愛﹐此事決定了他畢生的命運。
“唐王” 對年僅二十一歲的鄭成功﹐賜予明朝的朱姓﹐封為忠孝伯﹐此後被尊稱為“國姓爺” 。

このとき父の鄭芝龍は、平国公に封ぜられている。
公といい、伯といい、帝室の藩屏という身分だった。


他父親鄭芝龍﹐這時受封為平國公。
公與伯﹐就是帝室藩屏的身分。

この前後に、鄭芝龍は、成功の母田川氏を平戸からよびよせた。
田川氏は40半ばであった。


在此前後﹐鄭芝龍由平戶接來了成功的母親田川氏。
田川氏這時已是四十多歲。

安平鎮の城郭に住み、居ることわずか1年で非業に死んだ。
鄭芝龍が清軍に寝返ったためである。
このおかげで清軍は労せずして福州に入り、“唐王”をとらえ、のちに殺した。


住在安平鎮的城郭﹐僅一年就死於非命。
這肇因是鄭芝龍叛變降清﹐清兵因此不費吹灰之力就攻入福州﹐“唐王” 被捕遭殺害。

安平鎮の鄭氏城郭も戦わずして落ちた。
田川氏は城楼にのぼり、身を投じて死に、清将にさえ感動をあたえた。


安平鎮的鄭氏城廓也不戰而陷。
田川氏登上城樓﹐投身自殺﹐連清軍都為之感動。

このとき鄭成功は戦場にあって父の奔敵と母の自殺を知り、さらに君主が敵に拉致されたことを知った。

這時身在戰場的鄭成功﹐獲悉父親降敵﹐母親自殺﹐連君王也落入敵手的消息。

かれはこのとき、着ていた儒服をぬいで焼きすてたといわれる。
以後、武人として生きる。しかも残明のために生死する。


傳說他在此時﹐脫掉身上的儒服﹐付之一炬。
從此﹐他一變而成武人﹐而且與殘明共存亡。

その後のかれは、名将としか言いようがない。
当然ながら鄭氏の海上勢力を主力としつつも、海兵隊というべきものをもち、陸戦にも巧みだった。
廈門島(*アモイ)、金門島などを根拠地とした。


此後的他﹐只能以名將來稱呼。
當然﹐鄭氏是以海上勢力為主力﹐並擁有海軍戰力﹐同時也擅長陸戰。
他以廈門島﹐金門島等為根據地。

兵糧を得るために福建、広東、浙江などを手中にいれ、一方、軍資金のためにインドシナ半島からフィリピンにいたるまでの海上の覇権をにぎった。
貿易による利によって、戦費をかせいだのである。


他為了獲取軍糧﹐佔領福建﹐廣東﹐浙江等地。
同時﹐為了籌措軍費﹐也掌控了印度支那半島到菲律賓的海上霸權。
他是依靠貿易所賺取的利益來供應戰爭所需的費用。

外交もやった。
日本にも出兵を乞うた。
1658年、彼の使節が長崎に入港したが、日本はすでに鎖国体制になっていた。
その後、数度、出兵を乞い、そのつどむなしかった。


另一面﹐他還運用外交﹐請求日本出兵。
1658年﹐他派遣使船前往長崎港﹐無奈日本已採行鎖國體制﹐其後還數度請求援兵﹐可是每次都徒勞無功。

名将の条件の一つは、敵に勝つための軍制を考案することである。
その点、かれの陸上軍は、ユニークだった。
“鉄人”とよばれる日本式甲冑による重武装兵の部隊と、小銃による火力の威をもつ“倭銃隊”とを備えていた。
これをもって敵陣に孔をあけ、本軍をもって崩壊させた。


名將的條件之一﹐是研擬制敵求勝的軍制。
這一點﹐他的陸上部隊是獨特的。
他整備了由日本式甲冑組成﹐號稱“鐵人” 的重武裝部隊與配備了具有強大火力的步槍“倭銃隊” 。
他憑這戰力穿越敵陣﹐然後以主力使敵軍崩潰。

その若い晩年、長躯して南京城を攻囲したが、結局、戦勝を維持することができず、後退した。
その後、大陸の拠点をうしなわざるをえなかった。


在他年輕生命的最後幾年﹐雖然長驅直入圍攻南京城﹐但未能維持戰果而退﹐最後﹐不得不棄守大陸的據點。

夭折する前年、大艦隊をもって台湾にわたり、オランダ人を逐い、これに拠った。
台湾に拠ったのは、あくまでも戦略上の必要からで、この瘴癘の地を開拓して兵糧を得、かつオランダ人の商圏をうばって貿易の利を確保し、戦費に支障なからしめるためだった。


他逝世的前一年﹐率領大艦隊渡海來台灣﹐驅逐荷蘭人﹐據守於此。
其所以退守台灣﹐乃因戰略上所需﹐一來開發這片瘴癘之地以取得軍糧﹐再則奪取荷蘭人的商務權﹐確保貿易的利益﹐使戰費之來源不致有所阻礙。

その生涯は、あくまでも戦闘者としてのもので、文明の前進に益したというようなものではない。
しかし、はるかなのちの世に、かれの予期しなかった政治的効果をもたらした。

鄭成功的一生﹐是徹頭徹尾的戰鬥者﹐而非有助於文明前進的人。
然而﹐他卻給長遠的後世﹐帶來了並非他所能預料的政治性效果。

ひとつは、かれがつくった台湾における漢民族政権が、ともすれば無主の地とみられがちなこの島の所属について、後世、一証拠を提供することになった。

第一﹐他所創建的在台灣的漢民族政權﹐給在後世被視為無主之地的這個島﹐提供了隸屬上的一個證據。

いまひとつは、とくに19世紀以後、わきおこった中国の民族主義的気分にとっての一つの炬火になったことである。

其次﹐特別是在19世紀以後﹐對揪起的中國民族主義的風氣﹐產生推波助瀾的作用。

清王朝は296年つづいた。
この王朝は、漢民族を慰撫するためにその古文明を尊重しすぎたこともあって、中国に停頓をもたらした(一方においては、辺境の異民族を討って、中国史上、最大の版図を形成し、その後の中国にその版図を贈るという結果をつくった)。


清王朝﹐前後約296年。
這個王朝為了要安撫漢民族﹐過分尊重其古文明﹐因而造成中國的停頓(另一方面﹐清朝討伐邊境異族﹐形成中國史上最大的版圖﹐結果是將整個版圖拱手給後來的中國)。

清の末期は、列強の中国領への蚕食があって、悲惨だった。
このため、革命家たちは、内にあっては異民族王朝を倒し、外に対しては漢民族の尊厳を守ろうとした。


清朝末年﹐中國遭列強蠶食﹐境況悲慘之極﹐因此﹐革命家們對內倡議打倒異族王朝﹐對外矢志維護漢民族的尊嚴。

となれば、17世紀に清に抵抗し、同時にオランダを逐った鄭成功の存在は、かがやかしいものにならざるをえなかった。
~中略~


如此一來﹐在17世紀抵抗清兵﹐同時驅逐荷蘭的鄭成功﹐不由分說地成了輝煌的人物。

いまは、大陸にあっても台湾にあっても、共通の民族英雄とされている。

如今﹐不分大陸或台灣﹐鄭成功成了共通的民族英雄。
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by officemei | 2008-11-07 09:19 | ■福建