■寧波

このまちのことを記しておきたい。

寧波(ニンポー)。
このまちは、わが国の歴史に深い関わりを持っているにもかかわらず、ここまで足を運ぶ日本人は少ない。
上海や杭州から数時間の距離、紹興からだと指呼の間だというのに。

寧波は、唐・宋の御世には「明州」と呼ばれていた。
その明州には「市舶司」という役所があった。
今日の税関・出入国管理などをつかさどる役所のことで、明州以外に広州・泉州など数ヶ所に設置されたが、ここ明州の市舶司はほとんど日本専門と考えていい。

司馬遼太郎著「中国・江南のみち」には、
“遣唐使派遣は第一回の630年出発から終了まで264年間、回数でいえば14回、数え方によっては20回ちかくおこなわれた。当時の日本人は、航洋の民ではなかった。大海をゆく航海法を知らず、それに耐えうる構造船の造船法を知らない。ともかくも、たらいを大きくしたような構造の船で、風浪にもまれつつ往ったのである“、とある。

はるか昔、遣唐使船はこのまちを目指した。
が、無事に着いた船は幸運で、途上暴風雨に遭って沈み、或いは遠く流されていった船も多い。空海の乗った船などは福建省まで流されている。
それほどの危険を冒してまでも当時の日本人たちはこのまちを目指したのだ。

それが、時代を下って鎌倉・室町の頃には、さかんに日本の貿易船が明州を訪れるようになった。
「中国・江南のみち」にはこのような記述もある。
“遣唐使時代、ゆくさきは中国というだけで目標を一点にしぼりえず、川岸から対岸にむかって紙飛行機でもとばすような冒険的航海法からよほど進歩したといっていい。鎌倉期、さかんに貿易船が明州と九州のあいだを往来した。この時代、禅僧の留学が一種のブームのようになっていたが、道元(1200~1253)の例をみても、遣唐使時代の乗船者の不安や悲愴感などは見られず、なにやら長距離バスに乗りこむような安気ささえうかがえなくもない”。

さて、寧波のまちの中心に“三江口”というところがある。
西の余姚江、南の奉化江がここで合流し、甬江と名を変える。
この三つの河川が合するところを“三江口”という。
この地こそ、遣唐使の時代から日中往来の発着港だった。
そしてこの三江口の河岸に市舶司があった。

もう一度「中国・江南のみち」の記述に目をやると、
“河岸の河港の岸に立つと、血のさわぎをおぼえざるをえない。奈良朝末にうまれて平安初期に入唐した最澄や空海もこの河港を知っていたし、平安末から鎌倉期にかけて若い僧の入宋留学が流行したころ、日本臨済宗の祖になった栄西(1141~1215)も、この河岸に上陸し、私どもが立っている場所の土を踏んだ”、とある。

司馬遼太郎先生は寧波・三江口の河岸に立ち、先人を偲んだ。
私は、その司馬先生が歴史に思いを馳せた河岸をゆっくりと歩いてみた。
千数百年、綿々と流れるこの河を、どれだけの日本人が行き来したのだろうか・・・



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by officemei | 2008-12-25 17:40 | ■浙江