カテゴリ:■浙江( 59 )

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by officemei | 2009-12-15 01:39 | ■浙江
南潯は太湖南岸の湖州市にある水郷だ。
南潯をあらわす言葉に「小橋流水水晶晶」、「街坊林立大宅門」というのがある。
清末には「湖州一個城,不及南潯半個鎮」、「耕桑之富,甲于浙右」と言われるほどに繁華なまちであった。
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by officemei | 2009-08-12 18:27 | ■浙江
紹興酒の郷として有名な紹興のまち。
「臥薪嘗胆」の越王勾銭の時代、このまちは越の首都であった。

清の時代、「紹興爺」という言葉があったそうだ。
長男は家業を継ぐが、次男坊以下は学問を積み科挙を目指す。
中央官界にデビューできない者も、多くは政治家の幕僚となって諸事を差配する役職に就く。
従って著名な政治家には必ず紹興出身者の幕僚がおり、彼らに任せておけば同郷のネットワークで事が速やかに処理されたらしい。
彼らのことを「紹興爺」という。
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紹興。
水郷、酒郷、書法の郷、古くから名士を多く産する。
近代から現代にかけて、秋瑾、魯迅、周恩來、蔡元培等の著名人を輩出した。

水路を使い紹興酒の搬送をしたように、このまちには運河が多く、橋が多い。
「橋の郷」と称される所以だ。
動画はこちらへ


「紹興」是中國歷史文化名城之一,春秋戰國時,越王勾踐建都紹興。
紹興素有水鄉、酒鄉、書法之鄉、名士之鄉的美譽,歷史上曾出現許多著名人物,如秋瑾、魯迅、周恩來、蔡元培等。
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「悠悠鑒湖水,濃濃古越情」,紹興以其人文景觀豐富、水鄉風光秀麗、風土人情誘人而著稱於世。
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自古即為遊客嚮往的遊覽勝地,另外紹興城內河港縱橫,橋特別多,清光緒年間,城內就有橋三百餘座,現在紹興市區較著名的橋還有七十多座,整個紹興水鄉,橋竟多達三千餘座,所以紹興又有「橋都」之稱。
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by officemei | 2009-08-12 17:52 | ■浙江
「小橋流水人家」は水郷の形容としてよく使われる。この句は、馬致遠「天淨沙‧秋思」の一節だが、イメージ的に暗い。
「枯藤老樹昏鴉 小橋流水人家 古道西風瘦馬 夕陽西下 斷腸人在天涯」
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むしろ、杜牧の「江南春」のほうが江南の水郷をよりイメージしやすい。
千里鶯啼緑映紅 千里鶯啼いて緑紅に映ず
水村山郭酒旗風 水村山郭酒旗の風
南朝四百八十寺 南朝四百八十寺
多少楼台煙雨中 多少の楼台煙雨の中
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ノスタルジック水郷の旅;烏鎮

石畳の道の両脇に、古い木造の建物がずらりと建ち並ぶ。
このまちに身を置くと、清朝末の江南の田舎町・のどかな水郷にタイムスリップしたような気になる。
小説の舞台となった「林家鋪子」・・・
「霜葉は二月の花に似て紅なり」、「子夜」、茅盾のふるさと烏鎮。
動画はこちらへ

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「烏鎮」地處浙江省桐鄉市,位於上海、杭州、南京三大城市中間,京杭大運河穿鎮而過,是江南水鄉六大古鎮之一。

烏鎮除了擁有小橋、流水、人家的水鄉風情和精巧雅致的民居建築之外,更多地飄逸著一股濃郁的歷史和文化氣息。

一千三百多年的歷史賦予了烏鎮深厚的文化底蘊,至今古鎮仍完整地保存著原有的水鄉風貌,古風猶存的東、西、南、北四條老街呈十字交叉,構成雙棋盤式河街平行、水陸相鄰的古鎮格局。

這裡的民居傍河而築,街道兩旁保存有大量明清建築,全鎮以河成街、橋街相連,依河築屋、深宅大院,重脊高檐、河埠廊坊,過街騎樓、穿竹石欄,臨河水閣、古色古香,水鎮一體,呈現著古樸、明潔的幽靜,水面漂來的扁舟上,搖著櫓的船夫哼唱著悠揚的江南小調,一派原生態江南水鄉的怡然風情。
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by officemei | 2009-08-12 16:42 | ■浙江
西塘というまち(古鎮)は浙江省嘉善縣の北に位置し、既に春秋戦国時代に呉越の境界として栄え、「呉根越角」と呼ばれた。
江南の水郷は今も随所に残っているが、このまちは特に肌に合う。
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by officemei | 2009-08-12 05:16 | ■浙江
このまちのことを記しておきたい。

寧波(ニンポー)。
このまちは、わが国の歴史に深い関わりを持っているにもかかわらず、ここまで足を運ぶ日本人は少ない。
上海や杭州から数時間の距離、紹興からだと指呼の間だというのに。

寧波は、唐・宋の御世には「明州」と呼ばれていた。
その明州には「市舶司」という役所があった。
今日の税関・出入国管理などをつかさどる役所のことで、明州以外に広州・泉州など数ヶ所に設置されたが、ここ明州の市舶司はほとんど日本専門と考えていい。

司馬遼太郎著「中国・江南のみち」には、
“遣唐使派遣は第一回の630年出発から終了まで264年間、回数でいえば14回、数え方によっては20回ちかくおこなわれた。当時の日本人は、航洋の民ではなかった。大海をゆく航海法を知らず、それに耐えうる構造船の造船法を知らない。ともかくも、たらいを大きくしたような構造の船で、風浪にもまれつつ往ったのである“、とある。

はるか昔、遣唐使船はこのまちを目指した。
が、無事に着いた船は幸運で、途上暴風雨に遭って沈み、或いは遠く流されていった船も多い。空海の乗った船などは福建省まで流されている。
それほどの危険を冒してまでも当時の日本人たちはこのまちを目指したのだ。

それが、時代を下って鎌倉・室町の頃には、さかんに日本の貿易船が明州を訪れるようになった。
「中国・江南のみち」にはこのような記述もある。
“遣唐使時代、ゆくさきは中国というだけで目標を一点にしぼりえず、川岸から対岸にむかって紙飛行機でもとばすような冒険的航海法からよほど進歩したといっていい。鎌倉期、さかんに貿易船が明州と九州のあいだを往来した。この時代、禅僧の留学が一種のブームのようになっていたが、道元(1200~1253)の例をみても、遣唐使時代の乗船者の不安や悲愴感などは見られず、なにやら長距離バスに乗りこむような安気ささえうかがえなくもない”。

さて、寧波のまちの中心に“三江口”というところがある。
西の余姚江、南の奉化江がここで合流し、甬江と名を変える。
この三つの河川が合するところを“三江口”という。
この地こそ、遣唐使の時代から日中往来の発着港だった。
そしてこの三江口の河岸に市舶司があった。

もう一度「中国・江南のみち」の記述に目をやると、
“河岸の河港の岸に立つと、血のさわぎをおぼえざるをえない。奈良朝末にうまれて平安初期に入唐した最澄や空海もこの河港を知っていたし、平安末から鎌倉期にかけて若い僧の入宋留学が流行したころ、日本臨済宗の祖になった栄西(1141~1215)も、この河岸に上陸し、私どもが立っている場所の土を踏んだ”、とある。

司馬遼太郎先生は寧波・三江口の河岸に立ち、先人を偲んだ。
私は、その司馬先生が歴史に思いを馳せた河岸をゆっくりと歩いてみた。
千数百年、綿々と流れるこの河を、どれだけの日本人が行き来したのだろうか・・・



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by officemei | 2008-12-25 17:40 | ■浙江
先に、上海から太湖周辺地への日帰り周遊のことを記したが、杭州には上海から日帰り観光もできるようになったとは言え、朝夕の西湖を満喫するにはぜひとも宿泊をするべきだ。
それだけの価値はある。
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杭州にはこれまで4回訪れた。
最近では金木犀の花の匂い溢れる頃に3泊した。
湖濱路にある“ハイアット・リージェンシー杭州”、このホテルの部屋から眺める西湖は最高だった。

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私が泊った部屋はレイクビュー、しかもバスルームは“湯に浸かりながら西湖の風景をお楽しみください”とアピールするほど、実にいい雰囲気だった。

早朝、カーテンを開ければ朝靄の西湖、ベッドに横になりながら西湖のパノラマを観賞し、夕刻にはバスタブに浸かりながら落日夕景の西湖を堪能する。
天上天下唯我独尊、至福の一刻。

その昔、マルコポーロは「東方見聞録」で杭州を“世界で最も美しく華やかな都市”と紹介した。
残念ながら、現在の杭州からはその面影を感じることはできないが、西湖畔の風情だけは今も充分観るに値する。
南宋から元に至る歴史が頭に入っていれば、尚更興味は尽きない。

杭州八月桂花香・・・
旧暦八月(まさにこのとき)は金木犀の花の匂いが西湖畔に溢れる。
呼吸するたびにその甘い香りが鼻孔に入り心地よい。

朝早く自転車をレンタルし、白堤・蘇堤・楊公堤を1時間半かけて走破。
汗ばむ肌に爽やかな風を感じた。






杭州・西湖畔、朝の公園はダンスに興じる人たちに占領される。
年配者が健康維持のためにここへやってきて、せっせと身体を動かしている。太極拳・ジョギング・体操・カラオケ・・・

動画はこちらへ
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by officemei | 2008-12-14 04:17 | ■浙江
杭州に黄色の横断歩道が出現。
安全面で車にも識別しやすい、目につきやすいということだろう。
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by officemei | 2008-04-05 05:50 | ■浙江
マージャン・・・
我々世代の男は、高校か大学時代には必ずやった。
徹マンもしょっちゅうだった。
社会に出ても、同僚や上司と打つことが多かった。
謂わば一種社交の場でもあった。
息子は二十歳になるが、マージャンを知らない。
今の時代では、マージャンをやらない若者が殆どだそうだが・・・

この写真は中国の子供たちが遊びとしてマージャンをやってるシーン。
さすが中国。マージャンを打つ後継者はちゃんと育成されている・・・
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そのマージャンの発祥の地が寧波だということをつい最近知った。
寧波の「天一閣」に麻將陳列館というのがある。
清の咸豐年間、寧波の人、陳魚門が作り上げた。
マージャン用語には当時の寧波方言や航海に関連する言葉が色濃く残っているらしい。
そもそも、マージャンは麻雀と謂うが、寧波の方言では麻將と読むらしい。
雀(que)を將(jiang)と読む。
遣唐使船や勘合貿易、更には倭寇など、寧波は古来より日本との関わりが深く、日本にマージャンが渡来し今日に至るまで、マージャンを麻雀と書くのは寧波方言がそのまま根付いて残ったのだそうだ。
逆に中国では、マージャンを発音そのままに麻將(majiang)と謂うようになった。
日本の麻雀(majiang)のルーツは寧波にあった・・・

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風靡世界的中國麻將文化起源於寧波,它最早產生於中國古代博戲,直至清代咸豐年間才由寧波人陳魚門整理並定下規則和打法。

天一閣中的麻將陳列館以麻將的發展史為線索,借助天一閣豐富的藏書資料和文物藏品,考證了陳魚門先生的生平、中國博戲的發展史、麻將的產生演變史,並從寧波的方言、航海術語等方面佐證了麻將與寧波千絲萬縷的聯繫。

陳列館院內有一銅像群,坐在中間那位就是傳說中麻將的發明者寧波人陳魚門。
銅像中一左一右各坐著一個英國人和一個日本人,儼然就是「三缺一」。
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麻將由寧波人陳魚門發明,麻將術語無不與寧波文化有關。
由「馬吊」發展到「麻雀」,而「麻將」是「麻雀」的寧波方言;和牌的「和」念「hu」,也是寧波音;「嵌擋」,「朋(碰)」等都和寧波方言有關。
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另外,寧波航海業發達,麻將中的術語也與航海有關:「索」象徵船的纜索和魚網;「筒」象徵船上的盛水桶;「萬」象徵船家對財富的渴望;「風」則為出海最為敏感的風等等。


e0094583_4491579.gif学界关于麻将起源于宁波的观点,旁证之一是麻将本作“麻雀”,而宁波话麻雀正读作“麻将”。

这是很有意思、很有说服力的证据。雀读作将,如同脚读作将,宁波话瘸子叫拐将、吃剩的菜肴叫碗将、水缸底下的残余物叫水缸将、挑剩的东西叫拣落将、北仑有个地名叫中岭将,“将”都是“脚”的音变。

这说明麻雀叫麻将,既是宁波话的特色,又合乎方言音变之理。
同時麻將在日本被稱為麻雀牌, 寧波(明州)古代是和日本通商的重要口岸,因此才保留了麻雀的字意,也進一步佐證了麻將起源於寧波。
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by officemei | 2008-02-18 04:55 | ■浙江
浙江省の風景は何となく日本に似ているように思える。
遣唐使・勘合貿易・朱印船の目指した港・寧波から、奉化・紹興・杭州といったまちを歩いてみてそう感じた。
風景ばかりではない。人の顔相も似ている。
私はどこへ行っても「あんたどこの出身?」と聞かれ、「どこか当ててみてよ」と言えば、殆どが「浙江省辺り」と当て推量される。
日本人はポリネシア系か半島系か、さもなくば中国江南系なので、私のような顔つきはここ江南辺り(浙江省など)ならよく見るパターンの顔だ。

司馬遼太郎「この国のかたち」に“越と倭”に関する記載がある。
古代黄河文明圏、いわゆる中原の地では雑穀を食し、これに対し長江流域では稲作がおこなわれ、米を主食とする別系統の文化があった。
楚とよばれる非漢民族地帯で、その遥か源流は雲南にあり、その雲南の背後には、東南アジア・印度などの稲作地域が拡がっていた。したがってこの辺りは古代稲作文化圏の北限或いは東限の地と思われる。

春秋戦国(前770~前221)時代、楚は中原諸国を凌ぐ繁栄を迎える。
稲作により多くの人口を養うことができたのだろう。
長江下流においても水田が増え、やがて呉が勃興する。
ほぼ現在の江蘇省あたりで都を蘇州に置いた。
中原からみれば楚と同様に呉も蛮地で、男子はザンバラ髪で文身(いれずみ)をしていたらしい。
続いて呉の南、現在の浙江省あたりに越が興った。

楚、呉、越ともに、中原の言語とはちがい、古代タイ語系の語族だったとされる。
更に越より南、現在の江西省、福建省、広東省あたりには“百越”と呼ばれる雑多な稲作民族が暮らしていた。
「漢書」では交趾(現在のベトナム)から会稽までが百越の分布する所とあり、華南からインドシナ半島までが古代越人のテリトリーだったらしい。

越は会稽の恥を雪ぐで有名(臥薪嘗胆の故事)な越王勾践の死後、歴史の舞台からは消えていき、紀元前334年に楚に亡ぼされる。
越の滅亡後、その遺民たちが対馬海流に乗って九州に渡来し、古代日本に稲作をもたらしたのではないか、という想像は私にとって大きなロマンでもある。(越人だけが日本人の祖先ではないが)

「魏志倭人伝」に、男子は大小の区別なく、みな黥面文身(いれずみ)をし、好んで潜水し魚蛤を捕えると記載されているが、この記述は越人についての古い記述とそっくりで感動的ですらある、と司馬先生は記している。

越人の末裔である雲南省の少数民族と「魏志倭人伝」にある倭の風俗を見れば、この風俗の流れが、雲南から長江下流、さらに日本へと続いていたと思えば、感慨ひとしお・・・
我もおそらく越人の裔なり。

寧波プロモーションVIDEO;
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by officemei | 2008-02-12 19:32 | ■浙江