<   2005年 10月 ( 15 )   > この月の画像一覧

嘗て大連外語学院で日本語を専攻した学生が、それぞれ日本の暮らしを体験し、やがて家庭をもち、子供ができ、今では大連で大いに活躍している。 

夫は役人から転進し、手広く対日関係事業を行なっており、妻は日本語の教育現場に身を置いて久しい。
以前から奥さんとは仕事を通じ面識があったが、今夜初めてご主人をご紹介いただいた。
40代半ばの風格ある紳士であった。
夫婦とも大変流暢な日本語を話される。
宴席を囲んでの歓談は日本語・中国語の多重放送を彷彿させた。
宴半ば、ご主人の指摘された言葉に深く感じることがあった。
それは、我々はある意味非常に似た境遇を有していることだ。
先ずご主人は日本語を専攻し、日本体験を持ち、大連市政府の外事畑で通訳などを担当され、退職後対日関連事業を手掛けておられる。
私は中国語を専攻し、卒業後北京大使館に身を置いた。
その後大学院を経て紆余曲折の末、今は通訳・翻訳・対中関連事業を手掛けている。
ご主人の日本観は客観的で的確だし、私の中国観も決して的を外れてはいない。
言葉に対する敏感さ、探究心は、外国語を専攻しその道で生きている者同士共通する感性をお互い感じた。
奥さんは満族だということは以前から知っていたが、今夜の歓談で祖父が満州国検察院長であったことを知った。
終戦後や、文革時期にはさぞや一家は苦労されたことだろう。
特に文革時期を(末期ではあるが)北京で体験した私には、察するに余りある、暗黒、非情、狂乱の時代だった。
そのような辛酸をなめた経歴を微塵も感じさせない気品と風格をもった女性だ。
それが家格というものだろうか。
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by officemei | 2005-10-24 00:08 | ■遼寧
福建省都・福州市は、市街地約250万、近郊を併せると約600万の人口を有する。
古くより榕樹が多く、「榕城」とも呼ばれる緑濃いまちだ。
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このまちは規模として適当なサイズにまとまっていて、南方特有の匂い(言葉で形容し難い)があり、私の好きなまちのひとつでもある。

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今回で九度目の訪問、仕事に追われて観光らしきものは一度もしていないが、福州を筆頭に、福清、アモイ等のまちにも、又神戸や姫路にも福建人の知人が多くいる。




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この地は華僑のふるさとと言われるほどに、古くから海外へ生活の場を求める人が多いが、私の故郷兵庫県も特に神戸を中心として福建出身華僑が多く、福建閥が存在する。
マレーシア・インドネシア・シンガポールの華人社会でも福建閥は大きな力を有しており、私にもシンガポールとペナンに福建を本貫(本籍)とする友人が何人もいる。

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そもそも元朝の頃の泉州(福建)は国際港で、イスラム世界の人たちも常住していた。
その盛況ぶりはマルコポーロの「東方見聞録」にも記載されている。
明朝の頃の鄭和も福建人で、大船団を率いて遥かアフリカやアラブの世界まで渡航しているが、その船団基地は福州にあった。「中国の大航海者 鄭和」(清水新書)を一読されたい。

福建人は海外移住者が一族縁者に必ずいるのが普通という環境なので、中国の他の地域の人たちと比べると、明らかに違った海外感を持ち、できれば海外で一旗挙げたい、といった山っ気も持っている。
そのことがいい目に出るか悪い目に出るかは、例えば・・・
成功者は莫大な資金を故郷に投じ、学校や病院などの建設資金を寄付し、地元に貢献する。
失敗者は闇の世界に身を落とし、違法行為を続けて当該国官憲に逮捕され犯罪者となる。
その中間の人たちは、ある者は堅実にその国に根を張って生きているし、ある者は闇の世界で生き続けている。
日本における「蛇頭」「密入国」「不法滞在者」「偽装結婚」「風俗営業摘発者」といった関連名称の中には相当数の福建人がいるのが現実だ。
その故か、福建人をとやかく言う日本人はかなり多いが、悪い奴はどこにもいるし、とりわけ福建がダーティなイメージを冠せられるのは間違っている。
むしろ、進取の気風に富んだ気質、と賞賛すべきかもしれない。
物事は純粋に一方だけを見ることはできない、清濁併せてその上で判断すべきだ。
福建はいい匂いのするまちだ。私はそれを良しとしたい。
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by officemei | 2005-10-21 20:02 | ■福建
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福州的阿晖與我是好朋友﹐昨晚﹐我們聚在一起。
我見他神情沮喪﹐便詢問發生何事。
他嘆氣說:「昨天是我生日﹐我的女秘書請我去她家﹐要幫我慶祝生日。」
我:「那不是很好嗎?」
他:「到了她家﹐她讓我在客廳先等一會兒﹐五分鐘後進臥室找她﹐說要給我一個驚喜。」
我:「那不是很好嗎?生日交上桃花運了。」
他:「我當時也是這麼想的﹐可是五分鐘後﹐我走進臥室﹐發現我的女秘書和其他職員都在裡面﹐還捧著生日蛋糕等著我呢。」
我:「這也不錯呀﹐你的職員都很愛戴你﹐你應該高興才是。」
他:「可是當時我是脫光了衣服之後才進去的。」
我:「嗯﹐﹐﹐」
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司馬遼のファンである私には解せないことだが、中国出版物の中で彼の著作翻訳本を探すのは容易な事ではない。
(以下日本語・中国語)
先ず書店で見た事がない。渡辺淳一や村上春樹はあっても。
恐らく中国では右翼反動作家と位置付けられているのかもしれない。「台湾紀行」の作者として。
ならば、いつの日か私が翻訳出版してみたいものだが。
さて、彼を紹介した文章があるので参考に引用してみたい。
原文中国語。

白云上的司馬遼太郎
作者:楊永良

一九二三年八月七日,司馬遼太郎誕生于大阪。他原名福田定一,其筆名乃取自“遠不及司馬遷之太郎”之意。司馬遼太郎的祖父本是個日本算術家,但他于明治初年遷至大阪改行從商,販賣糕餅 。他父親則在大阪當開業藥劑師。在最具商人气息的地方從商,最重要的即是要具備理性的經營頭腦 。這個特性影響司馬遼太郎极為深遠,在他的小說中,經常以冷靜、理性的歷史觀來審查主觀的、非理性的意識型態。因此,有人稱他的歷史小說為“非意識型態”的歷史小說。

司馬遼太郎從十三歲開始,即經常到大阪市立圖書館博覽群書,至他大學畢業時,几乎已經讀完圖書館的藏書。其好友寺內大吉(作家)回憶說,司馬遼太郎在報社上班時曾經住過他家,他每天要到報社上班時,總是撕下一頁百科全書來背誦。

他十八歲時進入大阪外國語學校(今大阪外國語大學)蒙古語科就讀,名作家陳舜臣是高他一年的學長(印度語科)。二十一歲(一九四三年)時被征調到中國東北的戰車連隊。他大學時代的專攻(蒙古語)以及后來的中國經驗,無形中影響了他的寫作風格。本來日本作家并不擅長描寫大時代的社會動態,若是以讀俄國小說或是法國小說的態度來讀日本小說一定大為失望,因為日本作家只擅于描寫內心的感受以及身邊的瑣事,名之為“私小說”,并自認為是日本小說的特色。吾人若看了托爾斯泰的小說再去看“私小說”,肯定打瞌睡。

然而司馬遼太郎的小說卻具有從天空俯瞰大時代動態的特質,也因為這個特質吸引了無數的日本讀者。筆者認為他這特質与他的蒙古語學有莫大的關系。因為住在沙漠中的民族,為了要辨識方向,尋找水源,他們關心視界以外的世界,因此總是將視點如老鷹般高懸在天空中某一點往下俯瞰。這种觀點自然与屬于森林文化的日本觀點大相逕庭。事實上司馬遼太郎极喜歡蒙古,他除了到蒙古旅游外,早期的作品如“波斯的幻術師”、“戈壁的匈奴”,以及晚年的“韃靼疾風錄”都是描寫北方騎馬民族的作品。

他從一九四六年(二十三歲)至一九六一年,先后在新日本新聞社及產經新聞社當記者。這記者生涯可以說是他歷史小說的原點。三年前他曾經對他的朋友說:“若有來生,我還要當個新聞記者。”可是他這個記者与大多數的記者不同,他永不厭倦地充實自己的知識,而且由于他隸屬于文化部門,因此經常到各大學与寺院去采訪,獨自研讀寺廟中所藏的古文書,并与大學教授結為好友。通常的歷史小說作家都只是搜集文獻,考察當地風光,以作為寫小說的准備工作。而司馬遼太郎不只如此,他至歷史事件的發生地去,必定像個新聞記者般詢問當地的居民:“你出生于何地?是否知道事件的傳說 ?”換言之,他把事件的主角當作仍然活在該地一般。

他是個徹底的現場主義者。他一定要到那塊土地去,呼吸那里的空气。他說過,有時從空气中能夠發現重大的事實。除了歷史之外,他還研究地理學、地勢學、交通地理學、人文地理學、人心地理學。 他認為,我們不能以一個地方的風土論斷一個人,但是每個地方确實存在其風土特性。亦即,每個人都具微量的風土特性,如果數十万人聚集起來即顯現其特征來。若是追溯其歷史,則數百万人的特征聚集起來即更顯著。因此他舉例說,阪本龍馬的故鄉土佐(現四國高知市),當地的人黑白分明,好訴訟,具平等思想。近江(現滋賀縣)人具商人天份,与華僑的習性相似,然明治時代之后,產業資本興起,商業資本沒落,因此近江商人也跟著沒落。

偉大的作家大都极為注重人物背景的形象。筆者在杜斯妥也夫斯基的草稿上發現他畫著教堂、人物等具体的圖畫;黑澤明在拍電影前也會先畫圖來捕捉影像。司馬遼太郎曾經說過:“我在寫作時,如果看不到那個人的臉,看不到那個人站的地方,那么我就無法寫下去。譬如說,我寫丰臣秀吉時,寫到有一個使者到他前面來。此時,我雖然在小說中沒寫出來,可是我會想像丰臣秀吉的前面站著多少人?天气是陰是晴?這附近是否有松林?這松林是蒼翠欲滴的幼松,還是蒼勁挺拔的老松?”總之,他對鮮明的形象极為執著。

再舉一例證明。司馬遼太郎曾對山崎正和說:“我寫的小說,從一開始,我就打算寫給外國人看。我所謂的外國人,并不一定要真正的外國人,日本人也無所謂。總而言之,我想像的讀者是,對日本歷史完全沒有知識的人。譬如說我寫源義經(一一五九至一一八九年,平安末期至鐮倉初期的武將)時,絕不以了解他生平的讀者為對象去寫。”既然是以外國人為對象,那么要特別注重具体而詳細的形象描寫。

司馬遼太郎雖然寫過各种各樣的歷史小說,甚至也寫過忍者小說,但是他最拿手的還是明治時代前后的歷史小說。換言之,他喜歡描寫一個沒沒無聞的人在亂世中如何開創歷史成為英雄,而明治時代正好是這樣的一個時代,而且明治時代所留下的史料又最丰富。

由于他喜歡描寫英雄,所以他小說中的人物大都是健康開朗的人物。這与日本明治以后的小說不同, 例如夏目漱石所描寫的人物多半是內省的厭世者,或是生活趨向破滅的人物。而司馬遼太郎的小說能夠獲得日本讀者的喜愛,其理由之一,即能夠消除日本民眾日常生活中的壓力,使精神生活得到淨化。他的小說也与寫“眠狂四郎”的柴田鏈三郎的小說不同。有一個評論家指出:“小說家好像是個病人,他向讀者說,我這里痛,那里難過。而評論家好像是個醫生,他听病人訴說病情,幫他看病,幫他診斷。可是司馬遼太郎卻是以醫生的身分登場,日本突然產生這种作家,使我們一時不知所措。若以舊有的觀念來說,就好像一個沒有小說家特質的人突然寫起小說來。”

雖然司馬遼太郎喜歡描寫英雄,但是他卻認為日本沒有真正的英雄。他在与美籍日本文學家唐納金 (Donald Keene)對談時說:“源賴朝(一一四七至一一九九年,鐮倉幕府的首代將軍)是個偉大的政治家,但是沒有人緣;源義經是個無聊的人物,但卻大受歡迎。大久保利通(一八三0至一八七六年)也是相當偉大的政治家,然而日本人卻喜歡稚儿气的西鄉隆盛(一八二七至一八七七年)。也就是說,政治原本是男人的世界,但是日本人卻喜歡女性的特質。譬如說,西鄉隆盛有時會寫寫詩,發表几句名言,結果比大久保更得人緣。”

他又提到日本的政治家可分為受尊敬的政治家与受歡迎的政治家兩類:“像丰臣秀吉胡作非為,可是大家都喜歡他。而德川家康建立了江戶体制,雖然他的功過見仁見智,但總之完成了政治家最重要的任務。可是日本人卻對他敬而遠之。如果你對日本人說,你像德川家康,兩人一定吵起架來。要是說,你像丰臣秀吉,那他就難掩喜悅之情。”

司馬遼太郎一生的作品無數,而且自一九六0年(三十七歲)之后,几乎年年得獎,宛如為他的作品設獎似的。因其作品汗牛充棟,今僅以其得獎作品為中心簡介于下:一九六0年以忍者小說“貓頭鷹之城”獲直木賞,一九六六年以“龍馬風云錄”、“盜國物語”獲菊池寬賞。

“龍馬風云錄”是一本大河小說(即將時代、社會的變遷視同長江大河般描繪的長篇小說),書中每個人物都具鮮明深刻的個性与形象。其主角阪本龍馬(一八二五至一八六七年)是德川幕府末期的革命義士,雖然對明治政府成立有功,但最后被幕府官吏暗殺身亡。龍馬少年時,被稱為愛哭鬼。后來他學了北辰一刀流,得到下級武士的眾望,成為他們的領導人物。他在大變動的時代覺醒過來,体認到必須推翻幕府日本才能得救,于是乃毅然決然地脫离所屬的土佐藩國,加入倒幕的行列。后來他從革命義士逐漸成長為成熟的政治家。龍馬的行動猶如天馬行空,最后他超越了國界,神游于擁抱全世界的夢想。司馬遼太郎本人也說:“日本歷史當中,阪本龍馬是最有魅力的人物。”

一九六七年,司馬遼太郎獲大阪藝術賞,一九六八年“殉死”獲每日藝術賞。“殉死”的主角為被稱為日本戰神的乃木希典。在日本人的心目中,乃木希典是日俄戰爭的英雄,當他听到明治天皇去世的噩耗時,也跟著自殺殉死。因此他已經成為日本近代史中神話性的人物。而司馬遼太郎在“殉死”中卻用冷靜、客觀的手法把乃木描寫成一個“蠢將”。在這之前,芥川龍之介也曾寫過諷刺乃木的短篇小說“將軍”。芥川龍之介可以說向“戰神”砍下第一刀,而司馬遼太郎則是拿著關云長的青龍刀劈下致命的一擊。

一九六九年司馬遼太郎的“歷史紀行”獲文藝春秋讀者賞。一九七二年“人間日子”等作品獲吉川英治文學賞。同年出版“阪上之云”最后一卷。“阪上之云”的主角有三人,即秋山好古、秋山真之兩兄弟,以及真之的有人正岡子規。本小說透過此三人的行動來描繪明治時代的青春期。秋山好古后來成為陸軍騎兵的創立人,真之則是日本海海戰的名三謀,子規成為近代俳句的開山組。日本從幕藩体制進入近代國家的行列并沒有想像中那么順利,在這作品中,描繪著明治時期的人如何因應日清、日俄兩戰役。司馬遼太郎在此小說中探討何謂日本的近代?明治時代的意義為何?此作品的高潮是在旅順總攻擊与日本海海戰,我們從那里可以看到日本加入第二次世界大戰的淵源。

一九七六年其“空海之風景”等作品獲藝術院恩賜賞,一九八0年出版“項羽与劉邦(上、中、下) ”單行本。“項羽与劉邦”在“小說新潮”連載時,原名是“漢風楚雨”,司馬遼太郎從劉邦的大風歌中取出“風”字,用來表現在漢的根据地中原黃土地帶吹起的干燥塵土,而“雨”則顯現多濕的楚國風土。他在此小說中,仍然不忘發揮其擅長的風土文明論。

一九八一年獲選為藝術院會員,一九八二年“人之跫音”獲讀賣文學賞,一九八三年(六十歲)以“ 革新歷史小說”之理由獲朝日賞,一九八四年“街道漫步南蠻篇”獲新潮日本文學大賞學藝賞,一九八六年獲NHK放送文化賞,一九八七年“俄羅斯漫談”獲讀賣文學賞,一九八八年“韃靼疾風錄”獲大佛次郎賞,此小說也成為他最后一篇長篇小說。一九九一年司馬遼太郎獲選為文化功勞者,一九九三年(七十歲)獲頒代表日本人最高榮譽的文化勳章。

此外,從一九七一年開始,他在“周刊朝日”雜志上發表的游記“街道漫步”,至他去世為止,共連載一千一百四十六期,其中包括已在台灣出版的“台灣紀行”。今年(一九九六)二月十二日因腹部大動脈瘤破裂,病死于大阪的醫院,享年七十二歲。病死前,他曾接受九小時的手術,然終回天乏術。關于他的死,名動畫作家宮崎駿發表感言說:“司馬遼太郎一直思考著,為什么日本會產生如此愚蠢的‘昭和時代’。現在日本更趨腐敗沒落,司馬遼太郎已經看不到日本的沒落光景,我為他感到欣慰。”
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by officemei | 2005-10-17 23:16 | ■日本
内モンゴル自治区フフホトでの晩餐メインディッシュ。
羊の頭部姿焼き。
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モンゴルの饗宴は酒と唄がメインだ。
スピーチと乾杯と唄が繰り返し続く。
アルコール度数の強い酒をぐっと干して、民謡(民歌)を声量豊かに歌い上げる。
日本の馬子歌にも似た旋律で、目を閉じるとモンゴルの草原を想起させる。
勧められる(敬酒)と、先ず指を酒に浸け、その指を天と地に向けて弾き、献酒したのち自分の頭に向けて弾く。
酒は飲み干さなければならない。
これが繰り返し続き、そのつど唄う。
嘗て、遊牧民族は街や村を形成しなかった。
草原を移動しながら人生を過ごす。
そのための住居がパオ(包)だ。移動のたびにたたみ又組み立てる。
数家族単位のグループで草原を放牧するので、外来者との接触が少なく、たまに訪れる者があれば歓待する。
いろんな話や情報が聞けるからだ。
従って出会いを大切にし、大いにもてなす(好客)。
現代のモンゴル人にもその気風が脈々と受け継がれている。
よく飲み、よく歌う。男も女も。
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by officemei | 2005-10-13 20:45 | ■内蒙古
e0094583_11593793.gif中国人留学生が感じた日本と日本人というサイトに面白い比較があった。
関西人の私としては、ふむふむと納得するところもあって、ここに引用してみたい。
(以下中国語)

关西和关东
日本最著名的地区文化区别要数东京和大阪了。光是买东西一件事情就能看出东京人和大阪人的不同。在历史上,江户是武士的都城,重视名誉和面子,大阪是商人城市,讲求合理性和自我满足。大阪人看东京人:没有吃的还装体面!东京人看大阪人:为两个小钱就纠缠不休,脸皮真厚、不害臊!

东京的买卖是武士买卖,定价如此,你爱买不买!大阪城的生意规则却是:“按你定的价格买东西?我是傻子啊?!”“自从世上有了买卖这桩事情,讲价就是正常行为,定价销售才是新鲜事!”“讲价才是亚洲式的买卖,到过印度中国的人,人人明白,只有不讲价的日本人才是肥羊。”就这么几句话,古今中外、人情物理全照顾到了,大阪人可谓能辨!

以往的商店中,最不肯减价的是百货店,在东京的百货店买东西,当然没有讲价的余地。那么,大阪的百货店可不可以讲价钱?这可是个秘密,问十家九家不愿意回答。但是你实际去观察观察,却会发现在那里讲价钱是每天都在发生的事。店员的解释是:在关东没有人讲价钱,在关西没有不讲价钱的人!据说关西人以讲价钱为乐趣,比起有能力买得起高价商品,更重视怎样以更低价买到了商品为骄傲。

从性格上讲,比起关东人寡言易怒,关西人显得开朗而饶舌,很善于和人沟通。如果你看过关西人讲价钱,你就会知道这种沟通能力的来源了。尽管商店门前挂着“大减价”、“半额”的旗子,来购物的客人还是要说:“再减点”、“我只带了这么点钱”、什么的,探测对方的底牌,店家当然也是此中老手,做买卖怎么也得有赚头。于是双方指东说西,一方攻、一方守,洋洋洒洒,整个讲价过程好像一段出色的对口相声。要是顾客对店家的让步感到不满意,还会使出最后一招,“再搭点别的什么”。

起家于关东的某大型电器店,一向以减价幅度大而著称,所以当他们把店开到了大阪的时候,也曾想以价格的比较说话,免去减价谈判的时间。可这想法偏偏就行不通,顾客明明看到标价牌上注明最低价,可还是会和店员商量:能不能再便宜一点?了解当地人心情的店员,当然也有对应之法。店员快速地在计算器上打出1组数字,递到顾客眼前:“这样行不行?”这是大阪最常见的购物情形之一,计算器上打的数字,只有交谈的双方心知肚明。即使眼前就有第三者,他想要减价,也需和店主从头谈起。

起先,这家大型电器店颇有想改变大阪买卖风俗的习惯,可后来才发现顾客并不是那么容易改变,他们以讲价为乐趣,哪怕减100、200日元也要谈谈,坚持定价销售的原则无异于“横刀夺爱”,非君子所为。也只好入乡随俗。大阪人不仅在本地如此,跑到了东京买东西也要讲讲价,以至这家大电器店在关东的各分店店员一听到关西腔也不由的精神紧张。他们对关西人讲价手段之高半是惊叹、半是感佩!
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by officemei | 2005-10-13 17:56 | ■日本
雨。
このまちの匂いを嗅げずじまいで明日上海に帰ることになりそうだ。

感じたことは韓国人の多いこと。
山東半島の東端に位置するまちなので、青島もそうだったがここも特に多いように感じる。
当然ながら日本よりもはるかに近く、歴史的にも古くからの往来があったからでもあろう。現に朝鮮族の人たちもこの半島には古くから居住している。
ここに限らず天津も大連も韓国企業の進出が多い。
有名なサムソン(三星グループ)の大工場も天津に拠点を設けているし、瀋陽や吉林の朝鮮族自治区にも韓国は入り込んでいる。
この煙台でも随分と幅を利かせているようだ。
まずハングル文字の看板がやたら目に付く。
ホテルのビュッフェは韓国料理のバイキング。
旅行者向けのタウン情報紙は日本語も英語も無く韓国語版。
背広姿のビジネスマンが数人ずつかたまって大声で韓国語を喋り、テレビの番組はいくつものチャンネルで韓国ドラマを流している。
私が泊まっているホテルにはテレビの有料成人番組があって、それも韓国版(見てません)。
ソウルやプサンに行ったときに感じたことだが、韓国のホテルの部屋には靴下、パンツ、コンドーム、それに異性を刺激するコロンとかの有料グッズが置いてあった。
この煙台のホテルにも同じグッズが置かれている。
韓国人の男性はこんなものを多用するのだろうか。
需要があるから置いてあるのだろうが、ラブホテルじゃないっちゅうの。
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by officemei | 2005-10-09 22:17 | ■山東
空港に着くと久しぶりの顔が出迎えてくれた。

姫路の老舗レストラン「新北京」の王世鐘さんだ。

後継者に後を譲って神戸の自宅に家族を残し、母方の里、ここ煙台で悠々自適の生活を送っていらっしゃる(当地で日本語を講義されている由)。
この人は生まれも育ちも学校も関西なので、華僑というよりも知性的関西人と言ったほうがぴったりくる。


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夕刻までのひととき、合歓の木の街路樹、坂道、市場、旧市街「所城」の胡同等を二人で散策し、その後一人住まいのお宅にもおじゃまし、近くのレストランで食事をともにした。
話は尽きなかったが王さんは明日神戸に一時帰国(?)されるし、私は朝から面談があるので9時前に散会。

山東省内では済南、湽博、青島を訪れたことはあるが、このまちは初めてだ。
王さんの話によると、煙台という地名はそもそも明の時代に倭寇の来襲を狼煙で報せる砦に由来するらしい。
「芝罘」という地名が中国近代史の中にかなりの頻度で出てきたと記憶しているが、東隣のまちが「威海」即ち清朝末期の海軍基地「威海衛」だし、日清戦争後の条約などでこの芝罘という地名が年表のどこかに出ていた筈だが、残念ながら手元に調べるすべが無い。
煙台市の中に「芝罘区」とあるから、ここは嘗ての「芝罘」なのだが。

山東省は嘗ては貧しい地域だった。
「討荒」といって、この地から旧満州へ流れていった人は相当多い。
宋の時代、水滸伝の舞台梁山泊の兄さんたちも多くは地元山東の食詰め者で、清朝末期の義和団の乱も山東人によって起こされた。
古代においては山東には斉の国があり、国都臨湽は当時一番の盛況を誇る大都市であったし、孔子の故郷である魯の国も現在の山東省内にあるので、燦然と輝く中原文化の版図に属するが、東端に位置するこの辺りは同じ山東でもその圏外、未開の地であった。
そもそも「中原」とは現在の黄河中流域周辺を指すから、沿海地域などは文化及ばぬ野蛮な地という概念が古代から中世まで存在していた。
近代になると、ドイツが青島に租借地を構え洋風の街並みが現出する。「青島ビール」の味はドイツの技法を今日まで伝えており、ここ煙台は19世紀末からの歴史を誇る「張裕」ブランドのワインとブランデーで全国、否、全世界に名を馳せている。
清朝末期、列国は相次いで沿海地域にその橋頭堡ともいうべき租借地を築き、ここに初めて洋風文化が根付いた。
以来上海を筆頭に、天津、大連、青島、そしてここ煙台等の地は、異文化体験を有するまちとして位置づけられ、それらのまちも人民共和国建国から文革の終焉までは逼塞を余儀なくされていたが、開放路線の始まりとともに蘇生し、既に約25年近く中国の経済発展の牽引役となっている。

大学時代の恩師である故井上隆一教授は、戦時中に山東の「坊子」という田舎町の駅長をされていた。
酒を酌み交わしながらその当時のことをよくお聞きしたことが今も脳裏に刻まれていて、山東に来ると恩師の面影をふと追ってしまう。
この恩師によって私の今日があり、弟子の私は今もこうして中国の地を飛び回っている。
(お元気な頃の井上隆一教授と奥様)
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さて現代の煙台はどんなまちなのか。
初の訪問で時間もさほど取れないので、まだ嗅覚に匂いを感じないが。
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by officemei | 2005-10-09 22:12 | ■山東
贋ブランドオンパレードの商店街
天津から塘沽の開発区に入る手前に「洋貨商店街」がある。
二、三百メートルの歩行者天国(ちょっと古臭いかな)になっていて、鞄、時計、ライター、小物等の専門店が軒を並べている。
塘沽開発区で人と会う約束が一時間ほど早く着いてしまったので、時間つぶしに寄ってみた。
未開発の荒れた土地にここだけ人の群れがあった。
車の進入を禁止しているので、手前の道路の路肩を簡易駐車スペースにし、近在のおっさんが入出庫の管理をしていた。
駐車一回につき3元。
そこにみすぼらしいおばはんが「CD、中身は洋物だよ、安いよ」と、安っぽい、いかにもいかがわしいCDを売りつけてくる。
まとわりつくといった方が適切か。
遼寧省外のナンバープレートをつけた大型バスが何台も駐車している。
団体客のショッピングコースにもなっているのだろう。
先ずはぶらっと一回り。で、いくつかの店に入ってみた。

鞄・小物類、時計・・・。大体この種の商店街と言うかバザール、泥棒市場は上海にも有名な所があるが、警察の巡回も厳しくなっていて、ここのような大胆な陳列は控えつつある。
ここじゃ公開・露出・もろ見えで、おまけに警察が人ごみを整理する状況で、並んでいるすべての商品が贋ブランド。
A貨・B貨・C貨という精巧度により値段が違う。
粗悪なC貨を主として販売するのは露天商で、これはびっくりするほど安い。
ただ明らかに本物とは違うと素人でも判別できる。
ちゃんと店構えをしたところではB貨を陳列している。
これも良く良く見ると多少色が違ったり、何か判別できる痕跡がある。こんな店で「A貨を見せろ」と言えば、奥から出してくる。
ある時計専門店での女主人との会話。
「お兄さん(大哥)、これは上物だよ。お兄さんなら判って貰えるよね」
「う~ん。いくらだ?」
「1200元」
「冗談がきついねえ。大きくふっかけたもんだ」
「よくみてごらんよ。これだけの物はちょっと他じゃ売ってないよ」
「俺は上海で何度もA貨を買ってるんだ。こりゃそう大した物じゃないさ」
「お兄さん、上海の人かね。なら、これならどう?他の店を覗いてごらんよ。これと同じ物はどこも置いてないよ。疑ってるんならほんとに他を見てきてよ。嘘は言わないよ」
「いくらだ?」
「1500元。お兄さん、(突然大声から小声に変わり)お兄さんなら思い切って1300元にしとくよ」
「よく言うよ。こんなの上海じゃどこの店でも200元ってとこだ」
「馬鹿なこと言わないでよ。そんな物と一緒にしてもらっちゃ。特上のA貨だよ、これは」
「わかった。じゃ他をあたってみるさ」
「お兄さん、1000元。もう一元もまけられない」
黙って店を出ようとすると。
「お兄さん、いくらにしたら買ってくれるんだい」
で、800元・600元・500元となり、
「これのペアウオッチで女物もあるかい?」
「あるさ。値段は男物も女物も同じだよ」
「ならペアで500元でどうだ?」
「お兄さん、無茶な話だよ。これだから上海人はやってられない」
「いや、ダメなら別にここで買わなくたって、帰って同じ物を探すさ」
「じゃあ、わかった。それで手打ちにしよう」
「う~ん。やっぱ女物は止しとくよ。200元なら考えよう」
「あ~?もういいよ!お兄さんも冗談きついねえ」
「ほら、どこでも宣伝してるじゃないか、二つお買い上げの方には更に一つおまけします(買二送一)って。やっぱペアで買うからもひとつおまけしてくれるってどうだい?」
「怒るよ、お兄さん!」
私の購買意志が無いことを察して、積極的アプローチはこれにて修了。
お疲れ様でした。
大体言い値の70%引きまでは値切り交渉するが、すごい人は90%引きまで厚かましくも値切る。
但しこんな店での話。
普通の店ではムリ。一体仕入れ値はいくらなんだか・・・
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by officemei | 2005-10-09 22:08 | ■天津
このまちは中国北方地域のなかで唯一私の肌に合うまちだ。

いつ来ても何かほっとするようなまちの匂いを感じる。
緩やかな坂、港、市電、レトロな洋館、日本時代の建築物といった「アカシアの大連」(清岡卓行著)の世界と、都市開発によるモダニズムが新旧交々の雰囲気を醸し出している。
北京のような大味なだだっぴろさ、瀋陽のような暗さ、天津のような汚れを感じない、こじんまりと小奇麗にまとまったまちだ。
多分に神戸と対比して見てしまう。
どうも私の感性は水っぽさ(ネオン街とは違うよ)を求めているような気もする。
海や河と緑の山・丘、それに街路樹・濡れた葉や草、多少湿っぽい空気、そんな背景に人の生活と息吹を感じる都市の様相が旨く配合されていればじっくり腰を据えてその中に自分を置いてみたくなる。
だから北は総じて辛い。南が肌に合う。
大学時代の一期後輩(実は同い年)で、今は日立に勤務する阿部という男がいるが、彼も頻繁に中国出張があって、私はふと思い立つと彼の携帯に電話をかけるのが習性になってしまった。
不思議なことに十中八九つながる。
同じまちにいて再会したのは上海での一度きりだが、お互い同じ大陸のどこかにいるんだという安心感があって、学生時代一途に中国語を学んでいた頃の気分に些かでも浸ることができリフレッシュできる。
で、彼は大連出張が多く、逆に私が大連にいるときは何故か他のまちにいる。
(敬遠されてるのかな?)

故山口一郎神戸大学名誉教授とは、ずっと以前、北京で職場も住居もご一緒させていただいた。
先生は文部省出向の単身赴任、私は未だ学生気分の抜けない好奇心旺盛な20代なかばの青二才で、大学教授から見れば、やんちゃな学生と思われていたに違いない。
更には、先生も私も同じ兵庫県民であったことも、可愛がっていただいた背景の一つかもしれない。

北京では、建国門外斉家園外交人員公寓に私たちは住んでいた。
当時としては市内一の高層(15階建て)マンションで、唐山地震の折には激しい揺れと今にも崩壊しそうな音により圧死を覚悟したくらいだ。
今年も二度北京を訪れたが、我が「斉家園」は健在だった。
但し周囲は一変し、高層ビル群の中で精彩はなかったが。

先生とは外食仲間であった。
たまには自炊もするが、お互い単身の身軽さもあってよく食べ歩いた。
先生と食卓を囲む時間と空間は、私にとっては有意義且つ楽しい授業でもあった。
近代思想史の学者で、著名な孫文研究家である先生とご一緒しているにも拘らず、実は私は一度もご専門の講義を拝聴していない。
失礼な言い方ではあるが、先生との会話はアカデミックな色がまったく無かった。浅学な私のために身近な事象から解きほぐして語られたので、より興味深く鮮明に心に残っている。

帰国後数年を経て、神戸(鴨子が原)のご自宅に何度も先生を訪れた。
先生は神戸大学を退官され、関西大学に移られた。お忙しい時間を割いて、私の結婚式にもご出席くださりスピーチまでいただいた。
当時、先生は「今度、大連に日本の文化センターのようなものをつくるんだが、きみ行ってみないか」と何度もお誘いを受けたことがある。
当時私はどうして先生のお誘いに応えなかったのか? 
そんなことが想い出され、先生を偲んで一人酒を酌む。

大連。
いい響きだ。
真冬の大連は経験が無いので、寒さに滅法弱い私にはそれが気になるが。
明日は山東半島煙台へ向かう。
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by officemei | 2005-10-09 22:08 | ■遼寧