<   2006年 09月 ( 13 )   > この月の画像一覧

「清河坊」是杭州歷史上最著名的街區,也是杭州目前唯一保存較完整的舊街區,是杭州悠久歷史的一個縮影。
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南宋定都杭州後,築九里皇城,開十里天街。
於是,在宮城外圍,天街兩側,皇親國戚,權貴內侍紛紛修建宮室私宅。
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中河以東建德壽宮,上華光建開元宮,後市街建惠王府第,惠民街建龍翔宮等。而清河坊的得名,與當時的太師張俊有關,建炎三年,張俊在明州(今寧波)擊退金兵,取得高橋大捷,晚年封為清河郡王,倍受寵遇。
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他在今河坊街太平巷建有清河郡王府,故這一帶就被稱為「清河坊」。
當時,這一帶商鋪林立,酒樓茶肆鱗次櫛比,買賣絡繹不絕。
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「清河坊」也曾是杭州最繁華的商業區,古有「前朝後市」之稱,前朝是指「前有朝庭」,即鳳凰山南宋皇城,後市指「北有市肆」,即河坊街一帶,歷經元,明,清和民國時期,這一帶仍然是杭城商業繁華地段,杭州的百年老店均集中在這一帶。
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清河坊興於宋盛於清,街區現存古建築大多建於鼎盛時期明末清初,百年老店胡慶余堂、萬隆火腿莊、羊湯飯店等大多建於此時,雖說歲月無情,但見風韻猶存。
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目前,清河坊歷史街區的業態布局,除保留區內著名的老字號外,以招租,聯營等形式,引入商家經營古玩、字畫、旅遊紀念品、工藝品、杭州及各地名土特產等符合街區歷史文化氛圍的項目,形成以街引商、以街帶商、以商興旅、以旅促榮的良性循環。
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by officemei | 2006-09-22 21:50 | ■浙江
幕を閉じた「円環」  
戀戀圓環  美食原味站即將消失

台北市で最も歴史ある夜市「建成円環」だが、改築後も商売が振るわず人気を回復できなかったために、7月初めに完全に営業が打ち切られた。1月の光華商場の取り壊しに続き、また一つ懐かしい台北の顔が消えていったのである。

堪稱台北市最悠久的夜市──「建成圓環」,由於改建後生意每下愈況,無法挽回消失的人氣,7月初正式拉下鐵門,結束營業。這是繼今年元月光華商場拆除後,又一個老台北消失了。

3年前、台北市は2億元を投じ、老朽化した夜市「円環」を取り壊して改築し、特色ある飲食店や業者を招致した。しかし人が集まらず、商売も振るわなかった。台北市では昨年の年末、計画の中断を決定、業者と早めに解約し、7月2日に全面的に営業を終了することになった。今後、建成円環は美食推進センターに生まれ変わる。こうして100年も続いた夜市の灯は消えた。

3年前,台北市政府斥資2億元將老舊圓環拆除後重建,同時引進具有特色的美食業者進駐,但是始終無法帶來人潮,生意未見起色。市府去年底即著手計畫收回,與攤商提前解約,7月2日正式打烊收攤,未來建成圓環將轉型成美食推廣中心。近百年的夜市熄燈,走入歷史。

円環の最後の日、地元や地方から多くの人が訪れ、最後にもう一度、円環の懐かしい味を楽しんでいった。円環の牡蠣オムレツの老舗「順発号仔蚵煎」の主人によると、再建後の円環は風通しが悪く、空気がこもりやすい設計で、人を呼び込めなかったと言う。一旦はここを離れるが、将来チャンスがあれば、また必ず戻ってきたいそうだ。

圓環結束當晚,許多本地及外來的民眾,不約而同齊聚一堂,最後再回味一次圓環的美食小吃。圓環老店「順發號蚵仔煎」老闆感慨地說,改建後的圓環動線不良、空氣悶熱,無法吸引顧客,不得已忍痛離開,但未來如有機會,他們一定會回來。

円環の営業終了前、馬英九台北市長は店を出していた業者に対し、円環再建は台北市の「あまりよくない」施政だったとして陳謝した。古い市場の改装は、確かに難しい。市長は、専門のコンサルティング会社に委託し、新たに円環の今後の方針を検討するという。また年末までには2度の大規模なグルメフェアを開催し、人を集めようと企画中だ。陳玉梅・台北市議会議員はウェブサイト「恋恋円環」を作成し、円環に関する文章や画像、動画などの資料を広く募って、円環の歴史を皆で記していこうとしている。

在圓環結束營業前,台北市長馬英九曾前往向攤商致意,他承認改建圓環是市政「做得比較不好的地方」,舊市場改建的確有一定的難度,他會找專業的顧問公司,重新評估建成圓環未來的走向,年底前將舉辦2場大型美食展,希望能吸引人潮回流。台北市議員陳玉梅特別製作「戀戀圓環」網站,向各界廣徵文章、照片、影像等資訊,讓大家一起來書寫圓環的歷史。

台北で育った人なら誰でも円環の名は知っているし、よそから台北へ来た人も円環に慣れ親しんでいた。それは台北の庶民の食文化の中心だったのである。

凡是生長在台北的人,不論男女老幼都知道「圓環」的大名,到過台北的外地人,對圓環也不陌生,它是台北市庶民生活的飲食中心。

建成円環(ロータリー)は日本時代に、欧米の都市の形式を手本に、バロック調のスタイルや図案をもとに設計された。時代的な背景から言えば、西門や東門など1900年代初期のロータリーと大きな差はない。建成円環が当初は公園、その後は午後のマーケット、またその後にはにぎわいのある屋台街になったのは、特殊な環境に負うところが大きい。

建成圓環係日人統治時,移植歐美城市規劃的範型,仿巴洛克古典形式、圖案規劃設計下的產物,其形成背景與西門、東門等早期的圓環並無太大的差異。而建成圓環由昔日的公園、午後市集,演變成為日後人潮擁擠的小吃夜市,則是拜其特殊環境之賜。

建成円環の面積は1963平方キロあり、南京西路、重慶北路、天水路、寧夏路などがここで交差している。1935年、台北で大地震が起き、建成円環は避難場所に当てられた。震災後、周囲に2階建ての建物が建設され、住民も次第に増えていった。日本人はここに大きなロータリーを作り、周囲をゲッキツの木で囲み、その木の間にガジュマルも植樹した。当時の人々はここを「円公園」と呼んだ。その中には石のベンチが設置され、人々は涼んだり将棋をしたり、子供を遊ばせたりして、憩いの一時を過ごした。

建成圓環面積達1963平方公尺,被南京西路、重慶北路、天水路、寧夏路團團圍住。1935年,台北發生大地震,建成圓環權充避難空地;震災後周圍開始興建2層樓建築物,居民日漸增加,日人在該地劃出一個大圓圈,四周栽種七里香,中間植有榕樹,當時人們稱為「圓公園」,裡面還設有石凳,供人們乘涼、下棋及小孩嬉戲。

その後、果物の屋台(一説にはエビ麺売り)が木の下で商売を始め、次第に屋台街を形成していった。総督府は何度も取り締まったが、人出は増えるばかりで、最後には当局と協議して「台北行商組合円環夜市場」が組織されることになった。営業時間は午後5時から12時、鈴の音が合図として鳴らされ、合法的な夜市となったのである。

之後,有一水果攤(一說蝦仔麵販)至樹下設攤販賣,逐漸形成露天攤販區,日本政府曾多次取締,但人潮不減反而增加,最後日人遂與攤販協議組織了「台北行商組合圓環夜市場」,營業時間從下午5點到12點,並以搖鈴為訊號,成為一個合法的夜市。

1941年、太平洋戦争が勃発すると、日本総督府は夜間に灯りをつけることを禁止した。これによって夜市も大きな打撃を受け、それまでのにぎわいはなくなった。続いて、円環に2つの貯水池と周囲を囲む防空壕が掘られ、円環は荒地となってしまった。だが戦争が終わると、屋台がまた戻ってきて、防空壕や貯水池を埋め直し、再び店を出すようになった。列になった屋台が新たに円環に現れ、電灯はまぶしいほど輝いていた。夏の猛暑の中、涼みがてら散歩や食事に訪れる人が増え、夜市は身動きできないほどのにぎわいとなった。

1941年,太平洋戰爭爆發,日本政府規定夜間不准點燈,夜市活動大受限制,不復往日的繁榮。接著,又把圓環掘成2個大儲水池和一圈圈的防空壕,圓環變成了荒涼之地。直到日本戰敗投降,攤販才重回舊地,拆洞填池,再設露天攤位;一排排的攤販重新在圓環站了起來,燈火亮如白晝。炎夏季節,去那裡閒逛看熱鬧吃東西的人,將夜市擠得水洩不通。

1949年、国民党政府が台湾へ来ると、円環の周囲の建物も増え、重慶北路の両側にも屋台が立つようになった。その後、舗装された道路に屋台が出て、南京西路、保安街、帰綏街など近くの商店や軽食の屋台などと一緒になってショッピングエリアを形成するようになった。食べ物、洋服、日用品が中心である。1950年代から70年代にかけて、円環のにぎわいは龍山寺と肩を並べるものとなり、「南に龍山寺あり、北に円環あり」と称された。

1949年國民政府遷台後,圓環小販隨四周建築增加而擴散到重慶北路兩旁設攤。之後並將馬路舖上柏油、搭起攤位,與南京西路、保安街、歸綏街等附近商店、小吃攤形成「圓環商圈」,內容以飲食、服飾百貨、家庭用品為主。1950年代至70年代,圓環繁榮盛況與龍山寺齊名,號稱「南有龍山寺,北有圓環 」。

1980年代、都市再開発に伴い、台北市は開発の重点を東区に移した。さらに士林、公館など新たな夜市も台頭し、円環夜市の規模は縮小して、経済活動の規模も小さくなり、かつてのにぎわいはなくなっていった。そこで最後に台北市がてこ入れすることになったのである。だが有名建築士である李祖原氏が設計を担当し、大きな期待が寄せられた再建計画は、屋台の業者や一般消費者からの意見を取り入れなかったため、現代的な外観となったものの、懐かしい味わいを失った。ついに姿を消すことになって心を痛めているのは、歴史の研究者も一般市民も同じなのではないだろうか。

1980年代,隨著都市更新,台北市發展重心逐漸轉移到東區,加上士林、公館等夜市興起,圓環夜市規模縮小,商業功能及活動強度日漸萎縮,繁華不再,最後由市府接手規劃重建。沒想到這個由名建築師李祖原設計、被寄予厚望的重建計劃,卻因為沒有聽取在地攤商和客人的意見,空有現代化外觀而失去了「古早味」,終至黯然收攤,讓文史學者大感痛心,也讓民眾悵惘不已。
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by officemei | 2006-09-19 16:14 | ■台灣
中国遼寧省瀋陽の日本総領事館によると、満州事変(1931年)の発端となった柳条湖事件75周年を迎えた18日夜、瀋陽で開かれた記念式典終了後、市民の一部が会場で日本の国旗を焼き、シュプレヒコールを上げるなどの騒動が起きた。負傷者など被害はなかった。

式典は警官1000人以上が警戒する中で進行したが、終了後、警戒態勢が緩められたところを狙って若い男性2人が日本の国旗を広げて「打倒、日本軍国主義」などと叫んだ。市民約100人が2人を取り囲み、中国国歌を歌いながら日本国旗を燃やしたという。



9月18日は満州事変が勃発して75周年に当たる。中国では「抗日」を主題とする代表的な四つの博物館が特別展を開催した。国営通信社の新華社及び中国新聞社、中国共産党系の人民日報社は、いずれも大きく「9.18」の話題を報じた。

特別展のテーマは、北京市内の盧溝橋近くにある中国人民抗日戦争記念館が「中国東北における日本の植民地統治-9.18事変75周年写真展」、吉林省・長春市にある偽満皇宮博物院が「9.18を忘れるな-日本の東北侵略の史実」、遼寧省・撫順(ぶじゅん)市にある戦犯管理所旧址陳列館が「正義と平和のために-旧日本戦争犯罪絵画展」、遼寧省・瀋陽市にある9.18歴史博物館が「歴史を記憶にとどめ、平和を愛する-9.18事変75周年特設展」となっている。

2006年夏ごろから日本との「歴史問題」に関して、中国メディアには慎重に扱う傾向が目立っていた。しかし、9.18事変に関しては75周年ということもあり、歴史的経緯の紹介と各地の動きが比較的大きく報じられている。

その一方で、報道には過去の日本の軍国主義と現在の日本を切り離す配慮も見られる。人民日報社は9.18歴史博物館では開館以来7年間に8万人以上の日本人が入館し、政治家、旧軍人、更に一般日本人にいたるまで、「歴史を鑑(かがみ)として両国の友好的な未来を創造する」ことを強調する記帳を行っていると紹介した。

CCTV報道(中国語);
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by officemei | 2006-09-19 13:10 | ■遼寧
e0094583_19322823.gif柳条湖事件75周年
1931年、満州事変の発端となった柳条湖事件の発生から75周年を迎えた18日、事件の舞台となった遼寧省瀋陽の「9・18歴史博物館」で記念行事が開かれ、参加者らは「国の恥を忘れるな」と誓った。また、午後9時18分に瀋陽など同省内の14都市や中国各地で同時にサイレンが鳴らされる。


9月18日9時18分,中國4家知名的抗日主題博物館同時拉開各自新展覽的帷幕,以紀念“九.一八”事變75周年。

人民日報海外版報導,這4家博物館獨自設計了富有特色的展覽內容,但展覽的前言卻是一樣的。其中,北京中國人民抗日戰爭紀念館展覽主題為“日本在中國東北的殖民統治——‘九.一八’事變75周年圖片展”;長春偽滿皇宮博物院展覽主題為“勿忘‘九.一八’——日本侵略東北史實”;撫順戰犯管理所舊址陳列館展覽主題為“為了正義與和平——前日本戰犯繪畫展”;瀋陽“九.一八”歷史博物館展覽主題為“牢記歷史 珍愛和平——‘九.一八’事變75周年專題展”。
 
據瀋陽“九.一八”歷史博物館館長井曉光介紹,“牢記歷史 珍愛和平——‘九.一八’事變75周年專題展”將展出70多件今年新徵集到的文物、實物。其中最引人注目的是中國醫科大學捐贈的一組7件醫療試驗器皿,這是曾任日本731部隊第二任部隊長北野政次使用過的物品。

據最新統計,“九.一八”歷史博物館開館7年來,已接待國內外觀眾700多萬人次,其中包括8萬余名日本客人。從擔任要職的日本政治家,到當年侵華的日本老兵,再到普通的日本遊客,很多人在參觀後紛紛留言,強調要以史為鑒,開創日中兩國友好未來。

日本戰犯重返中國“再生之地”
9月17日,夕陽西下,85歲的原日本戰犯藤原助男與同行的其他日本友人一起,在“向抗日殉難烈士謝罪碑”前默哀。

這是藤原助男自1956年以來第三次回到位於中國東北的撫順戰犯管理所。從日本搭乘飛機到瀋陽的藤原,16日下午趕到了撫順。當晚,他就住在了昔日的監舍裏,重溫由“鬼”變成人的記憶。

從1950年到1964年,包括藤原助男在內共有982名日本戰犯在這裏接受改造。這些日本戰犯回國後成立了“中國歸還者聯絡會”,為日中友好和揭露日本侵略罪行奔走呼號。並且,他們還共同籌資在管理所建起了一座“向抗日殉難烈士謝罪碑”。

“這是我的再生之地,終生難忘。”在管理所監舍的大炕上,藤原助男撫摸著床板,打開了記憶的閘門,向人們講述起在管理所度過的日子。“管教人員吃的是高粱米飯,我們吃不慣就給我們吃大米,當時中國還很困難,對我們卻很人道。”

說到這裏,藤原哽咽難言,淚水奪眶而出。“一開始我們很頑固,不承認侵略、不承認自己是罪犯。在管教人員教育下,我們通過學習終於認清了這場戰爭的本質,從殺人魔鬼變成了人。”

1943年,22歲的藤原參軍來到中國,隸屬於39師團232聯隊,1945年在遼寧被蘇聯紅軍俘虜,1956年被中國釋放遣送回國。

藤原此行既是一次感恩之旅,同時也是一次謝罪之旅。9月18日,他要返回瀋陽,參觀“九•一八”歷史博物館,晚上觀看瀋陽舉行的紀念“九.一八”事變75周年撞鐘鳴警儀式。

專家:“九.一八”陰謀蓄謀已久
“日本發動‘九.一八’,不是一般的陰謀,是蓄謀已久的。”遼寧大學歷史系教授、東北解放戰爭史研究會秘書長邢安臣日前指出。

邢安臣說,日本把東北看成日本的生命線,從1906年開始,先後在東北設立南滿鐵道株式會社、駐奉天總領事館、關東廳、關東軍司令部,並使之成為發動侵華戰爭的前哨陣地和得力工具。

1931年,兩門24釐米口徑榴彈炮從東京輾轉運至瀋陽,在日軍獨立守備第二大隊兵營內(今瀋陽市太原街2號)安裝完畢,“閉著眼睛也能命中目標北大營、飛機場。”邢安臣說,日軍還頻繁進行軍事演習。僅“九.一八”事變前的一年間,日軍就在瀋陽進行了50多次軍事演習,這些都為日本發動侵華戰爭做好了鋪墊。

1928年6月4日,日本關東軍密謀炸死“不聽話”的張作霖。“這只是發動‘九.一八’事變的序幕。而炸張作霖專列和炸柳條湖的炸藥,都是一個名叫川越守二的日軍教員搞來的。”邢安臣說。

1931年9月18日晚上,日軍將距北大營僅數百米的柳條湖附近的鐵軌炸毀,反誣東北軍所為。邢安臣說:“柳條湖事件有兩個作用,一是製造藉口,一是爆炸聲給獨立守備隊第二大隊兵營發出了進攻信號。隨即,24釐米口徑榴彈炮的第一發炮彈落在北大營西北角,第二發落到東塔機場。”

“當天晚上下半夜,也就是9月19日淩晨3時30分,日本關東軍司令官本莊繁就率關東軍司令部從旅順坐火車進駐‘東洋拓殖株式會社’大樓裏(今瀋陽市總工會大樓)。”邢安臣說,19日5時30分北大營被占,6時30分瀋陽城被占。隨後,僅用4個月零18天,日軍便佔領了東北三省和一個特區,一口氣吞下了相當於日本本土3倍面積的中國領土。

“75年過去了,研究這段歷史,考證這段歷史,就是要還歷史以本來面目,讓人們瞭解真相。我們說勿忘‘九.一八’,就是不能忘記日本軍國主義給我們帶來的災難。”邢安臣說。

CCTV中国語報道;
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by officemei | 2006-09-18 19:33 | ■遼寧
e0094583_10242651.gif中国のホテルは、中国国家旅遊局が品評する等級制度によって、5等級の星で格付けされている。

しかし、どうも等級のレベルが統一されておらず、地域差・内容により大きく異なるように思われる。同じ等級のホテルでも大都市と地方都市、中国資本と海外資本で優劣が歴然としているからだ。

今回、事前に予約をしておいた4星ホテル「大連国際機場賓館」。
いつもは市内の外資系ホテルに宿泊するが、翌日早朝出発を考えて空港近くのホテルを予約することにした。ここはカタログに江沢民の写真も載っており、無料送迎もあって値段の割には良さそうに感じた。

青島から大連着。
迎えらしき者はいない。35分待った。電話をしてみた。
フロントは予約確認したがあなたの名前は無い、と言う。
さんざん文句を垂れて電話を切り、空港のホテル予約センターで付近のホテルを別に予約。

ほどなく先ほどの「大連国際機場賓館」から携帯に電話がかかった。
今から迎えに行くからもう少し待っていろ、という内容。
「予約も入れ、携帯番号も到着便名も伝えてあるのに迎えに来ず、フロントに文句の電話を入れたらあんたの予約なんぞ入ってないと言われ、今頃連絡してくるお前はあほか!」と言うと、「わかったわかったもうちょっと待ってくれ、迎えに行くから」とのたまう。

でお前、マネージャーと代われ。
マネージャーに、「ホテルというサービス業は特にCS(顧客満足)を心がけないといけないのに、お前ンとこは何だ、平身低頭して当方の間違いでございました、お許しくださいの言葉も無く、もうちょっと待ってろ、迎えに行くからとはどういう教育をしているのか。客に対する言葉遣いもなってないし、お粗末過ぎる、4星が聞いてあきれるぞ」
「すみませんでした、何かの手違いで。すぐお迎えに参りますから」
「もう他のホテルを予約した」で、通信終了。

新しく予約を入れた4星ホテル「金陽天大酒店」。部屋は小奇麗にしてはあったが、ミニ冷蔵庫は収納するところが無く床においてあるし、エアコンは修理中とかで使えないし、シャワーはちょろちょろと水が出る程度で風呂にも入れないし、0時を過ぎてもディスコの騒がしい音楽がガンガン響いて寝られない。まったく何が4星だか。

同じ4星でも外資系のホテルでは心地よいサービスを受けられるのにこの違いは何か?
これはすべての業種に言える事だが、サービスというものがどういうものかを理解できていないところにある。
オリンピックをひかえてこのていたらくはお粗末だ。

勿論、中には中国資本のホテルにも素晴らしいところもある。
私の宿泊した中では福州金源大飯店(5星)などは行き届いたサービスだったが、全国レベルではまったく等級にそぐわないホテルが多すぎる。
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by officemei | 2006-09-18 10:31 | ■遼寧
2006年9月14日
昨日昼近くに青島着。
香港中路のクラウンプラザ38Fに予約した部屋で臨沂からの来客と面談。
その後青島大学国際交流中心を訪問。
息子がこの大学で4月から7月まで短期留学をしたが、ちょうど私も4月・5月に青島へ来た折に会いに行ったのに、その折にはまさか後日仕事で関係を持つようになるとは思いもしなかった。

今日は又臨沂と日照からの来客と面談し、夕食までの時間を散歩。
この辺りは隣にジャスコがあるし、間もなくマイカルもオープンする。
内装工事中のマイカル前に大勢の人の群れがあって歩道を遮っていた。
人混みを掻き分けながら歩いていると、彼ら彼女らの話題が耳に入り、スタッフ応募に来ていることに気づいた。数百名はいただろうか、皆若かった。

青島にはもう何度も来ているが、来るたびにこのまちに落ち着きたくなる。
中国のどのまちよりも小奇麗で、適度の大きさにまとまっている。
レトロな旧市街とモダンな新市街が違和感なく共存し、海の匂いがかすかに漂う。
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青島は実にいいまちだ・・・
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by officemei | 2006-09-14 22:07 | ■山東
2006年9月13日・瀋陽の朝。
宿泊先のこのホテルは遼寧賓館(戦前の奉天大和ホテル)の裏側にあって、窓から中山広場が一望でき、中央には毛沢東像が今も健在だ。

昨日上海を午後2時に経ち、4時過ぎに瀋陽に着いた。その後ホテルで来客と面談し、夜は旧知の馮さんと西塔(リトルソウル)にある百帝園という韓国料理屋で食事。
e0094583_224414.gif(百帝園;中国語サイトはこちら)
(瀋陽西塔;中国語サイトはこちら)

この周囲には数万人の朝鮮族が居住しているらしい。いかにも北国っぽい(それ以外に形容しがたいが)けばいネオン看板はハングルのオンパレード。

ここでは韓国資本、北朝鮮軍部の資本、それぞれの料理屋やらサウナやら飲み屋が仲良く?共存しているらしい。次回来訪時には北朝鮮系の料理屋に行こうと誘われた。何でも服務員(ウエイトレス)が全員美女で大卒、店内の雰囲気は韓国資本よりもゴージャスなんだそうだ。

その後、場所を換えて百金瀚健足会館というサウナで入浴、足療(足つぼマッサージ)。
一風呂浴びて心地よい気分に浸った。清潔なサウナだったので気に入った。

さて、今からチェックアウトして09:40発の山東航空で青島に飛ぶ。今回の瀋陽は僅か16時間の滞在。10月に再訪予定。

瀋陽;
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by officemei | 2006-09-13 07:42 | ■遼寧
台北機場正式更名台灣桃園國際機場/位於台北的中正國際機場更名為台灣桃園國際機場案,位於機場出境跨越橋的招牌也立即進行更換,與巴士上的行駛路線名稱形成對比。
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“中正”走入歷史“台灣桃園機場”今生效
9月6日/台“行政院會”今天通過中正國際機場改名“台灣桃園國際機場”,即日起生效。“行政院長”蘇貞昌表示,希望“民航局”、航空公司廣為宣傳;“交通部長”蔡堆說,兩、三個月內可完成行政作業,三項用中正機場名稱簽約的航約,預計半年內處理完成。

中央社報道,政院新聞局副局長易榮宗上午在記者會轉述蘇貞昌的裁示說,十大建設時代就定名桃園國際機場,到啟用前改為中正國際機場,近年來地方反映希望回復原來的名稱。

蘇貞昌說,這種情形就像他擔任台北縣長時,台北商港位在八里,卻叫“淡水商港”,經地方反映,他將其更名為台北商港。蘇貞昌表示,機場更名的相關作業程序,請“交通部”督導做好妥適的後續處理,也希望“民航局”和航空公司利用各種機會廣為宣傳。

蔡堆在會中表示,機場更名後,英文代碼不變,國際相關作業沒有影響,兩、三個月內可把行政作業完成;三項以中正機場名稱簽約的航約,預計半年內處理完成。

“交通部”指出,中正國際機場當年籌建過程中,都稱為“桃園國際機場”,但一九七九年啟用前,“交通部”報經“行政院會”通過更名為“中正國際機場”,現於國際民航組織及國際航空運輸協會的英文代碼為 (TPE)(意涵為台北),對外並以TPE為機場名稱。
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by officemei | 2006-09-06 23:48 | ■台灣
e0094583_1881361.gif來源: 中國經濟時報
環球在綫消息:《日本世界第一》出版25週年國際研討會在東京舉行的時候,主題竟然成了“中國的崛起”。哈佛大學教授弗格爾深有感觸地說,中國在當今世界中的情勢,使人想起從前的日本。從1978年起,中國經濟以年均9.6%的速度增長。隨著2008年北京奧運會、2010年上海世博會的舉行,“龍的騰飛”正在成爲世界舞台上激動人心的篇章。

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中国河南省の遺跡で、中国中部地方としては初めてパンダの歯の化石が発見された。専門家は1万年以上前にはパンダの生息地が現在より広く、北京原人がパンダを狩猟していたとする説を補強するものとしている。新華社が2日までに伝えた。

パンダの歯の化石が見つかったのは河南省中部、許昌市の霊井遺跡。パンダは現在、四川省、陝西省を中心に生息しているが、かつてはもっと広い地域に住んでいた可能性があるとの説がある。

北京原人の発見者、裴文中博士は北京郊外の周口店遺跡からパンダの骨が出土したと主張していたが、パンダの好む環境と北京の気候が違いすぎるとして、北京原人がパンダを狩猟の対象にしていたかについては疑問視する意見も多かった。


河南發現熊貓化石 疑萬年前遭猿人獵捕

e0094583_13275161.jpg圖為在河南許昌靈井遺址發掘出的大熊貓牙齒化石。

人類學家日前在對河南省許昌市靈井遺址內新發現的一顆動物牙齒化石資料進行鑒定後認為,這是一顆大熊貓牙齒化石。這顆“大熊貓化石”的發現,同時為北京猿人曾獵捕大熊貓提供了佐証。

新華社報道,大熊貓研究專家、中國科學院古脊椎動物與古人類研究所研究員黃萬波說,這顆大熊貓牙齒化石咀嚼面較為寬大,接近圓形,齒冠邊緣及咀嚼面上有許多釉質凸起。“這種釉質點狀凸起是大熊貓長期食用竹子的結果。”他說。

專家表示,這是在中國中原地區首次發現大熊貓化石,不僅說明晚更新世(距今12.8萬至1.2萬年)中國大熊貓的分佈不只限於秦嶺以南地區,還有可能解開北京猿人研究史上的一樁懸案:北京猿人曾經捕獵大熊貓。

上個世紀30年代早期,北京猿人發現者、著名學者裴文中先生,曾描述他在周口店北京猿人遺址內發現的一根大熊貓腿骨。他的說法受到了普遍的質疑:喜歡溫和亞熱帶氣候環境的大熊貓不可能在華北平原生存,而華北平原也沒有大熊貓活動的任何跡象。後來這根大熊貓腿骨不知去向,熊貓是否曾在周口店一帶活動一直懸而未決。

大熊貓現在的活動范圍主要集中在四川、陝西和甘肅的南部,而古代大熊貓的活動范圍要比現在大得多。中原地區大熊貓化石的發現表明,晚更新世時期秦嶺以北的中原地區氣候溫暖,有豐富的森林、竹林,適宜熊貓的生存。

黃萬波說,靈井遺址位於北緯34度附近,周口店遺址位於北緯40度左右,兩者僅相差6度。此次許昌靈井遺址內大熊貓牙齒化石的發現,為人們進一步認識裴文中先生描述的北京猿人遺址內的大熊貓化石的存在提供了新的思路。

對此,黃萬波做了兩種推測,一是在堅冰期氣候溫暖的時候,在華北平原中部活動的大熊貓有可能跑到平原北部北京猿人活動的周口店一帶,二是北京猿人活動半徑很大,在氣候嚴寒的時候有可能南下而捕獵到大熊貓。

這顆大熊貓牙齒化石是今年6月在靈井遺址內的一個考古發掘探方內發現的。它的發現者、河南省文物考古研究所研究員李佔揚介紹說,靈井遺址是河南境內埋藏舊石器文化遺存最豐富的遺址之一,從中出土的動物化石和石器已在萬件以上。

他說,從遺物埋藏和出土石器、骨器和大量的碎屑判斷,這是一處以屠宰肢解動物為主進而加工使用骨器、石器的工作營地。

對於大熊貓牙齒化石驚現於原始人的“工作營地”,李佔揚推測,當時大熊貓和鹿、原始牛、野驢等一樣,是人類獵殺的對象,人類把大熊貓的肉吃掉後,把骨頭拿來製作骨器。“大熊貓優質的皮毛也應是古人類所青睞的。”李佔揚說。

在靈井遺址中,還發現有鬣狗、披毛犀、野豬、獾、羚羊、赤鹿、斑鹿、野馬、象、河套大角鹿、原始牛等哺乳動物。李佔楊據此分析,靈井一帶應該是較乾旱的草原灌木環境,湖泊周圍有片狀草原,吸引了大批野馬、野驢等食草動物,遠處丘崗地帶分佈著灌木林和小片竹林,便於鬣狗、獾、大熊貓等出沒。

黃萬波說,大熊貓在中原以及南方大部分地區消失,主要原因是地球氣候變化造成的,而人類的捕殺在這一過程中也起了推進作用。
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by officemei | 2006-09-03 08:28 | ■河南