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06/10/22~24 福清にて
福建省福清市に3泊した。
神戸華僑総会名誉会長・林同春氏の故郷。
先般神戸でお会いした折に、「今度福清へ行きます」とお話ししたら、温和な顔が更に優しさを増した。

福清は「華僑の故郷」というほど多くの福清出身者が海外に根を張っている。
今回は福清の中心地・融城鎮の他に、陽下鎮・宏路鎮・東張鎮・海口鎮・城頭鎮・龍田鎮・港頭鎮・三山鎮・高山鎮・東瀚鎮・沙埔鎮のそれぞれのまち(村)を訪れた。
早朝から深夜までぶっ通しで20軒の家庭を訪問するハードスケジュール。
さすがにホテルへ帰った時には疲労困憊で風呂にも入らずベッドに倒れてしまった。


「紅眼病」(近所の家の裕福な様子を見ると眼が赤くなる)という言葉がある。
隣りが新築すれば我が家も負けてはならじ。
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この辺りの村々(鎮)には相当裕福な家が群集しており、いずれも4層・5層の豪邸?を構えている。どこもここも数百平米、なかには千平米を超える延べ床面積もあって、住居というより「館」といったほうが適切かもしれない。
友人に「すごいねえ。私の家なんかここの犬小屋みたいなもんだ」と言うと、見栄で建ててるから外見は立派だけど中はまだ内装もできてないところも多いよ」とのこと。
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成る程、屋内に入ると、1階はがらんとした空間を手付かずで置いているのが多かった。
或いはだだっぴろい客間として使っているところもあったが、家具やインテリアには殆ど費用を費やしていない。
ごく簡便なRCと自前のレンガや木材で建築し、どこも変わらぬ設計プラン(単純な間取り)によって「豪邸」が建築されていく。
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驚いたのは居間や食堂、寝室が上層階にあるのだが、緩勾配とか段差の解消とか手摺設置等はまったく考慮されていないので、これでは年寄りにはきついなあと感じた。それに構造体そのものと間取りの取り方のどれをとっても気密性に欠け、断熱素材らしきものも無いので屋内にいると寒さを感じた。南の福建では暖房設備など必要ないのだが室温はけっこう冷えている。
スライド;
つづく・・・・
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by officemei | 2006-10-29 11:19 | ■福建
06/10/21 福清にて
午後、雹がふってきた。
内蒙古フフホト。
「明日はもっと寒くなります」白教授は灰色の空をみつめて断定した。
白教授は素晴らしく流暢な日本語を話す。
知りあってから3年になるが、なんの違和感もなく、自然に日本語で会話できる稀有な存在だ。
モンゴルの風習、文化人類学の一端をいつも面白おかしく説いてくれる。
「モンゴルでは、親しくなるとなんでもお互い共有します。俺のものはお前のもの。お前のものは俺のもの。一番大切なもの、奥さんでも・・・ははは」

私の学生で、日本留学中のモンゴルの娘、ボリルの父親が遥か黒龍江省境のまちから会いに来てくれた。フフホト在住の彼女の伯父夫婦と白教授、私の5人でモンゴル料理を食す。
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(羊のスペアリブ)
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(粟とラード・ヨーグルト・砂糖をかき混ぜる)

今回のフフホトは僅か15時間ほどの滞在。
フフホト=北京経由=福州のフライト、半日かけて北から南への大移動。
気温3度のフフホト、パッチを穿いて長袖シャツにセーター・コート姿。
北京でコートを脱ぎ、福州ではセーターどころか長袖シャツも脱ぎたくなった。
気温28度の福州、Tシャツ・ノースリーブの人が行き交う。私は夜の空港で汗だく状態。

空港から福清に向けて約1時間。
おんぼろタクシーにでこぼこ道路を時速100キロのスピード。
暗い道を揺られ揺られてホテルチェックインが0:00を過ぎた。
ぐったりだ。
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by officemei | 2006-10-24 09:37 | ■内蒙古
06/10/20
今私は瀋陽にいる。
嘗て日本の傀儡国家であった満州国の奉天。
清朝ラストエンペラー・愛新覚羅溥儀の故地。
歴史をもっと遡ってみたい。
「手掘り司馬遼太郎」に「韃靼疾風録」を紹介した文章がある。
この本は清朝建国草創期を背景にしている。
その一部を要約。

17世紀初頭、わが国では徳川の幕藩体制も漸くに固まりつつある頃、大陸では明王朝がその終末期を迎え、万里の長城の東、満州の嚝野では韃靼の英雄アイシンギョロ・ヌルハチが女真族を統一し、後金という国を建国する。

古くから漢族は、東の長城の向こうに住む人々を東胡、或いは満韃子と呼び卑しめてきた。彼らは女真族といわれる民族で、今の東北三省、旧満州あたりで狩猟・農耕で生計を立てていた。
この民族は中国史上たびたび東北の国境を侵したが、北から侵入してくる遊牧騎馬民族のモンゴル族と決定的に違うのは、女真族たちが定住生活を営んでいたことだ。

この時代、彼らは農業もやっている。麦や粟を作っている。ただし農業はあくまでも補助的な生活手段で、主として奴隷~朝鮮人や漢人の捕虜~を連れてきて農業をやらせたらしい。自分たちは広大な森林地帯に散在して主に騎馬による狩猟を行っていた。
その数50万から60万。

モンゴル人といえば、女真人は彼らの戦闘力を恐れる。モンゴル人は遊牧をし、決して農耕せず、間違っても豚を飼うようなことはしない。一方、女真人は遊牧をせず、狩猟をし、副業のようにして農耕をする。更には農耕に付き物の家畜として豚を飼う。これらの点で、このふたつの民族は決定的に違っている。

「マンジは(女真族)は豚を飼う。ばかの証拠だ」とモンゴル人は言う。いざ戦闘になればモンゴル人は遊牧状態の中からすぐさま騎兵集団が編成され、疾風のように敵を襲い、また元の滅亡のときがそうであったように、敗れたと見れば雁が帰るように自分たちの草原に帰ってしまう。これに対し、女真族は豚を飼ったがために移動が遅く、更には農耕地を持ったがために土地への執着ができ、軽快な部族移動ができなくなった。
が、今は違う。

その女真人に英雄が出現した。彼らが歴史の表舞台に躍り出るのは、英雄アイシンギョロ・ヌルハチの登場による。
ヌルハチは、一部族長から身を起こして、女真諸部を統一し、汗の位に就く。そして国号を後金と称す。彼は、統一した女真の諸部族を満州八旗に編成し直す。これは狩猟の集団がそのまま戦闘集団、八つの軍団になったということを意味している。この強力な戦闘集団を従えて、1619年、サルフの戦いで、明・朝鮮の連合軍を大いに破り、これをもって万里の長城の東、遼東・遼西地域を支配下に治める。その後は清と国名を改め山海関を越え全中国の統一を果たした。

その女真の都・瀋陽。
嘗て壮大な歴史ロマンがこの地にあった・・・
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by officemei | 2006-10-23 07:24 | ■遼寧
06/10/18
煙台から瀋陽に18:00頃到着。
北朝鮮直営のホテル「七宝山飯店」2Fにあるレストランへ。
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ここには北朝鮮のウエイトレス(服務員)がいると前回訪問の折に聞いていたので、今夜は興味本位で行ってみた。
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だだっぴろいフロアに味気ないテーブル。
紺の制服に朝鮮民主主義人民共和国旗のバッジをつけたウエイトレス。
それと同じ制服の楽団と歌手による歌謡ショー。
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料理の味はというと、さほど旨いとは感じなかった。
むしろ今日の午後、煙台の開発区にある小さな韓国料理屋で食した味のほうが勝っていた。
ただ一品、「東海反目魚」は、不思議な感触だった。
子持ちシシャモの卵を数倍大きくしたデカい卵を噛むと、きゅっ、きゅっと音がするような感触で、こいつはなかなかいけた。
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何しろ初めて北朝鮮の人間を間近に見るので、好奇心でいっぱいだった。
訛りは相当きついが、まあまあの中国語を話すので、話しかけてみた。
「どこから来たの?」
「平壌(ピョンヤン)」
「もうどれくらいこっちにいるの?」
「1年ちょっとかしら」
「ホームシックにならない?」
「ええ。でもけっこう楽しく過ごしてるから」
「中国語はどこで勉強したの?」
「平壌の大学で」
「へ~、そうなんだ。漢字もわかる?」
「ええ」
黒い制服の上司らしきおばちゃんが来て、会話が途絶えた。
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北朝鮮・・・
拉致・ミサイル・核保有。
我々のイメージは益々悪くなっている。
独裁・貧困・閉鎖・狂気・・・
どれをとっても明るい材料は見当たらない。
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ウエイトレスとはいえ海外勤務ができる彼女たちは選ばれた階級なのだろうが、瀋陽の繁栄をまのあたりにして、彼女たちは胸中どんな思いなのだろうか。
例え管理され外界との接触が殆ど出来ないとしても、彼我の圧倒的な違いを感じる筈だが。

(写真は北朝鮮の女兵士、眼光鋭くこちらを見ている)
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司馬遼太郎の「項羽と劉邦」にこんな一節がある。
「中国の政治は、人々に食わせようということが第一義になっている。
流民が大発生するのは一つの王朝のほろびるときであり、その動乱の中で流民を食わせる大首領があらわれ、食わせるという姿勢をとりつつ古い王朝を倒し、新王朝をつくる。
逆に言えば、食わせるという能力を喪失した王朝については、天が命を革めてしまう。
他の食わせる者に対してあらたな命を下すのである。」

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by officemei | 2006-10-19 02:18 | ■遼寧
06/10/16
太平角・・・
このあたりは嘗ての国民党政権時代に建てられた別荘地で、今では解放軍の保養施設となっている。
更には2008年オリンピックのヨット競技会場に指定され、海浜風景地区として整備が行われた。
第三海水浴場に面したRoland Bar(朗园酒吧)、バーというよりはオープンカフェテリア。
快晴の午後のひととき、木蔭の席に浜風が心地よい。
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浜には10月中旬というのに海水浴を楽しむ人もいて、その向こうに青島の新市街地が望見できる。

その後、湛山路を散策。
静かだ。鳥のさえずりが聞こえる。
洋館の建ち並ぶ風情はここが中国だということを忘れてしまう。
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参考ブログ;
参考サイト;
青島海濱風景區位於青島市區南部沿海一線,東西長約25公里,南北寬約3公里。其風光特色為匯山、海、城於一體,融自然與人工為一爐,是國家級風景名勝區當中少數位於城市中心的風景區。

從20世紀初開始,青島由一處軍事重鎮、商埠逐步發展成為城市,並以其優美的自然環境、適宜的氣候成為當時國內最早的避暑勝地。二、三十年代,國內一大批學者、文化界人士雲集青島,使得青島成為當時中國的文化重鎮。同時,國內的達官顯貴及外國商人也進入青島,活躍了青島的工業、商業和建築業。不同國籍、不同地域的文化在這裏產生碰撞和融匯,為青島初期的城市建設構築了特定的理念:半個多世紀中,“碧海、白帆、藍天、綠樹、紅瓦、黃墻”及依山就勢、鱗次櫛比的優美建築成為青島獨佔鰲頭的風光特色,青島海濱因此也成為享譽海內外的著名旅遊勝地。

改革開放以來,青島市突破原有的思維模式,向著現代化國際城市的目標奮進,市區向東、西兩個方向拓展,市區東部建成成片的高樓大廈。與之相匹配,新建的道路也不再狹窄蜿蜒,大手筆的景點建設更富有現代特色。城市的發展建設不但完整地保留了海濱原有的風光特點,使現代化景點與自然景點相得益彰,而且對原來的風景區、風景點進一步美化和亮化。現在,青島海濱風景區每年接待1000餘萬人次的國內外遊客。
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by officemei | 2006-10-17 08:19 | ■山東
美國財政部長漢克•保爾森最近訪問中國的時候,將第一站選在了浙江省會城市杭州。人們認為,這一精心安排顯示出保爾森對中國未來系于何方的看法。

人們早就應該關注浙江經驗了。保爾森與那些遊覽上海摩天大廈的前任不同,他深諳中國奇跡:該國令人矚目的發展源自一種在其他地方同樣創造出增長和財富的動力,這就是自下而上的創業精神和基於市場的金融環境。正確認識中國傳奇的時候到了,而理解浙江的興起,正是這麼做的最佳之路。
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上世紀70年代,浙江的人均國內生產總值(GDP)僅列全國中游,今天卻已排名全國第四,僅次於北京、天津和上海。在某種程度上,這是一種不公平的比較。上述三個排在浙江前面的地區都屬於直轄市,沒有農業部門。浙江儘管工業化程度很高,但仍擁有大量農村人口。若在可比的基礎上比較,浙江是中國最富有的省份。

讓我們看看有關財富創造的其他一些指標。中國政府公佈的資料顯示,2004年,浙江城鎮居民的利息收入是上海的4.5倍,股息收入是上海的5.3倍。儘管上海的人均GDP更高,受到外國人稱讚的摩天大樓更多,但在浙江和上海之間卻存在這樣的差距,這是為什麼呢?答案是,在浙江,更多的人擁有並經營著成功的小企業。同一份調查資料顯示,浙江家庭的平均創業人口是上海的3.4倍。

財富創造和蓬勃的創造力,極好地闡釋了兩種模式之間的差異:一種是自下而上、創業型、市場導向型模式,另一種模式則依賴於大規模政府投資、國家行業政策以及得到政府大量補貼的外國直接投資。如果中國其他地區像保爾森所希望的那樣,都採用浙江模式,那麼中國將十分幸運。

浙江模式也為中國面臨的兩個棘手問題提供了一條出路——發展緩慢的農村地區和陷入困境的銀行體系。中國官員經常主張,他們需要引進外國管理技能,來解決該國的銀行業問題。其實他們只需要到浙江看看。浙江的銀行是中國業績最好的銀行。一位銀行經理告訴我,他的浙江分行的利潤,相當於該行在中國所有分行的利潤總和。其原因既不神秘也不複雜。浙江的銀行早就開始向私營企業放貸,遠遠早於中國其他地區。如今,浙江已經擁有了一個健康發展的企業部門,能夠進行明智投資,並如期償還貸款。

許多人都忘了,在上世紀70年代,浙江還是一個以農業為主的地區。這就是浙江模式和中國農村問題解決路徑之間的關聯之處。中國農民極具創業精神。浙江省如今那些規模最大的企業,許多都是在80年代由農民企業家創辦的。作為中國資本主義的前哨,浙江溫州在上世紀80年代還是一個農業小鎮。不管西方經濟學家怎麼吹噓外國直接投資和對外貿易對於消除貧困的作用,一個簡單的事實是,中國在消除貧困人口方面所取得的成就,80%歸功於上世紀80年代的前5年,而當時,中國沒有外國直接投資,貿易量也非常小。

真正起作用的是中國農村地區的有利環境——不僅農業的貿易條件有所改善,還放鬆了管制,減少了政府的干預,改善了中國農村地區的融資途徑。

僅有企業家精神並不能創造價值;它必須與資源和產權保護相結合。在企業家精神與資源結合方面,浙江省的工作做得比較好。要採用浙江模式,中國政治精英就要從根本上扭轉對農民的看法。20世紀90年代的觀點認為,農村問題就是勞動力補償問題——需要引入大量外國直接投資,建立大量工業區,以便創造工作機會。這種觀點不能算錯,但過於狹隘。
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by officemei | 2006-10-11 22:16 | ■浙江
對於務實的中國人來說,取英文名字長期以來都代表了他們溝通語言和文化鴻溝的一種方式。現在,隨著中國的影響力擴大到海外和在中國大陸生活的外國人數量的激增,對於中國城市的大多數年輕人來說,取一個英文名字已成了人生中的一件大事。

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如今,中國人的婚姻觀念已刮起了很強的開放風潮。上世紀90年代末期,中國大學校園裏找外國人結婚的例子還很稀奇,進入21世紀,這種情況開始急劇變化,和外國人談戀愛已不是什麼大不了的事情,嫁給外國人甚至變成了一種風氣。北京一名大四學生坦言:“很遺憾我沒外國戀人,如果給我機會,我肯定不會拒絕。”

據估算,現在中國的跨國婚姻占到了全體婚姻的5%,也就是說每年大約有40多萬外國人和中國的青年男女結緣。中國人的跨國婚姻對象國首推日本,僅在2005年便大約有7萬多日本人與中國人結成夫婦,幾乎是韓國的兩倍。

中國的跨國婚姻今後將繼續增加。由於重男輕女思想等原因,中國的男女性別比例受到很大破壞,中國在不久的將來可能需要外國媳婦解決本國的單身問題。

中國人生來就對少數民族沒有排斥情緒,因此對跨國婚姻也不會大驚小怪。和異族通婚的傳統至今在中國還完好地保留著,甚至國家公務員,除了特殊情況都允許和外國人結婚。在這一點上,可以說中國比韓國或美國要進步許多,今後跨國婚姻很可能成為中國的一種普遍現象。

中國的跨國婚姻也存在一些陰影。比起愛情來,許多人懷著對外國人的盲目憧憬而結婚,導致了不幸的婚姻生活。結婚看起來充滿幻想,但婚後生活卻與幻想有很大的距離。如果認為和外國人結婚會比和中國人結婚大有不同,就會碰壁。互相理解和愛情仍是跨國婚姻最重要的條件。

2008年,北京將舉辦奧運會,兩年後世博會在上海召開,屆時中國的國際化和開放程度將超出我們預想。2010年以後,中國每年跨國婚姻數量將輕鬆突破100萬。嫁個外國老公,娶個外國老婆,將被認為是很平常的一件事情,可以斷言,這種現象在中國很快就會實現。
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e0094583_22112885.gif在中國,最大的風險是水將枯竭。水,這個國家最稀有的資源,似乎快要被用完了。污染、浪費以及過度開採與大城市的擴張結合,搞糟了水井,吸幹了河流。
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危機的跡象處處可見。在乾旱的北方,最大河流系統沿線的4/5濕地已經乾涸。在西部,沙漠在侵蝕多個城市。在南部,50年不遇的大旱令農作物荒廢,該國最大的水路長江的水庫沿線也缺水。

國內報紙出現了越來越多的嚴酷資料,以及最新污染報導。在6月,國家環保機構估計城市90%的供水受到污染。根據水利部的資料,該國600個城市中的400個水資源短缺。

水總是中國的阿基裏斯之踵。這個世界上人口最稠密的國家人均水資源為2200立方米——低於世界平均水準的1/4。供求之間的不足估計達60億立方米。由於13億人口估計到2030年將增加至16億,供求差距會進一步加大。

乾旱的北方與潮濕的南方的地區差異令問題惡化。北京是110個“極度缺水”的城市之一,不得不從更廣闊的水源圈中進口水供應。

簡言之,中國的發展模式是不能持久的。在過去30年,政府就在強調發展的量而不是發展的質。膨脹的發展不能掩蓋環境的破壞。在過去30年的大多數時間裏,資金投入於新工廠,而不是投入廢水處理、水資源回收或更換漏水管道。

擁有水利系研究生學位的中國主席胡錦濤把持續發展作為執政目標之一。上月政府承諾在未來五年投入1萬億人民幣(1290億美元)在處理浪費和水資源迴圈利用上。

《中國水危機》的作者馬軍表示“中國有錢有技術解決這個問題。但環境部門常常難以執法,因為地方政府會首先保護商業。現在需要的是公眾的參與。”
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日本的手機帶有數碼相機、電視卡、指紋鑒定以及電子支付晶片功能,比其他國家的手機擁有更多的鈴聲。

但當這些手機來到中國市場,日本生產商發現自己落後於外國品牌,如韓國的三星、芬蘭的諾基亞以及美國的摩托羅拉。

日本的汽車也有同樣遭遇。儘管日本的工藝卓著,但製造商們發現他們仍然落後於歐洲以及本地競爭者。

加施德諮詢株式會社的市場研究專家徐向東認為,原因是日本出口商沒有做足功夫迎合中國消費者的獨特品味。以三星為例,它調查中國年輕人的品味,並用這些資訊研製手機。而日本製造商則相反,想套用日本消費者熱衷先進技術的那一套,沒能抓住中國消費者的品味。

徐的一半時間花在中國,為日本客戶做中國市場研究。他認為中國的新貴比日本人更愛炫耀。廣告策略必須意識到這一點,要為產品的聲望和時尚造勢,而不是把重點都放在技術上。

徐認為日本的不利因素在於兩國的文化很不同。日本以社會團結自豪,相當大部分人會把自己算作是中產階級。而中國則相反,貧富、老幼以及城鄉之間的隔閡在加大,層次分明。而且中國的許多新貴熱衷於標榜自己與較不幸的同胞相比,境況要好多少。

徐稱,中國市場文化善於接納消費者的多樣性和新趨勢。此外,“許多日本人似乎沒有覺察到,中國人往往對日本酒店和景點的細緻服務印象深刻,日本風格的餐館和浴室設備在中國流行。”“中國消費者思想開放,願意在他們認為是好的東西上花錢。”
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