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「天一閣を訪れなければ寧波に行ったことにはならない」、と言われるほどに有名なところ。
文人、読書人としては一度は訪れるべしところ。
「到寧波不到天一閣,等於沒到過寧波」。
有南國書城之稱的「天一閣」,座落在浙江省寧波市區,是中國現存年代最早的私家藏書樓,始建於明嘉靖四十年,由當時的兵部右侍郎「范欽」私人所建造。
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乾隆三十七年,皇帝下詔修撰《四庫全書》,范欽的八世孫「范懋柱」進獻藏書六百三十八種,於是乾隆皇帝敕命測繪天一閣的房屋、書櫥的款式,興造了著名的「南北七閣」,用來收藏所撰修的七套《四庫全書》,天一閣從此名聞全國。
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「天一閣」之名,取《易經注》中「天一生水」之說,是為了以水剋火,因為火是藏書樓最大的禍患。
據說,范欽在興建書樓時反復思考過防火問題,他在閣前開鑿了一座水池,池下有暗溝與月湖相通,使池水終年不竭,萬一失火,可就近汲水搶救,除了防火,天一閣在通風、防潮方面也獨具特色。
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范欽為了保護藏書還立下了嚴格的族規,要求後代子孫嚴格遵循「代不分書,書不出閣」的遺訓,並立有禁碑,後來范氏子孫都能嚴守其約,凡閣櫥鎖,分房掌管,禁止書下閣梯,非各房子孫齊至不開鎖,所以閣中藏書從始創至明代末年,一直保存完好,這在私家藏書史上,是絕無僅有的,但終因年代過於久遠,又經歷了許多變故,藏書到了近代還是有很多的失散。
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by officemei | 2007-09-28 06:36 | ■浙江
只管打坐(ひたすら坐禅すること)。
曹洞宗の開祖道元禅師は鎌倉時代に入宋し、寧波近郊の天童山において仏法を求めた。

「天童禪寺」座落在距寧波市東方二十五公里的太白山麓,為「天下禪宗五山」之一,由僧人義興創建於西晉永康元年,迄今已有一千七百多年。
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傳說當時僧人義興,雲遊到此,結茅開山、建造精舍,他在茅舍中日夜虔誦經書,天長日久,感動玉帝,玉帝命太白金星化為一童子,從天而降,為他侍奉供養,待寺建成後,童子飄然而歸,故得名為「天童寺」,並把三面環抱古剎的群山稱為「太白山」。
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「天童寺」不但是中國佛教臨濟宗的重要門庭,還是擁有八百萬教徒、三萬三千餘所寺廟的日本佛教主要流派曹洞宗的祖庭,在中日文化交流史上有著重要地位,改革開放以後,日本每年都有大批信徒來天童禪寺朝拜祖庭、舉行盛大法會,在促進中日文化交流上,有很重要的作用。
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寺院依山而築、層層遞升、高低錯落、逐殿登高、氣勢軒昂,整個建築佈局嚴謹、疏密相間,構成了一組恢宏、壯麗,保存完整的佛寺建築群體。
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by officemei | 2007-09-28 06:35 | ■浙江
上海には異国情緒たっぷりの「外灘」と中国情緒の色濃い「城隍廟」があるが、寧波にも「老外灘」と「城隍廟」があって、いずれも上海より歴史は古い。

そもそも上海は、近代になって初めてまちが形成されたが、寧波は古くからの大都市であった。ちなみに上海人の四分の一は原籍が寧波。すなわち寧波人が移住してできたまちだそうだ。
上海有外灘,寧波也有老外灘,上海有城隍廟,寧波也少不了,但是寧波的老外灘和城隍廟都比上海建得還要早。

「寧波城隍廟」為明太祖朱元璋於明洪武四年,為保國泰民安、下旨建造,但建成後屢遭火災,現存的廟殿是清光緒十年(1884年)重建的,是中國現存規模最大的城隍廟之一。
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整個建築很有特色,由門前照壁拱墻、大門明堂、儀門戲臺、前殿、後殿五部分組成,佈局完整、氣勢宏偉,尤其戲臺建得更是精美,為單檐歇山頂,藻井呈雞籠形,雕龍畫鳳、朱金裝飾,遠遠看去,熠熠生輝。

「寧波城隍廟」曾是浙東志士聚眾抗清之地,明末清初的張蒼水就曾在這裡聚集過數千民眾以抗擊清軍入浙。

文化大革命時,城隍廟神像被毀,廟宇轉為他用,改革開放後,寧波市政府並沒有依保護歷史文化遺存要『整舊如舊』的法規,將城隍廟恢復舊觀。

經過幾十年的發展,現在的寧波城隍廟已經淪為小吃攤的集中地,五花八門的小吃竟設攤在廟內,主殿也被闢為藥房,以「寧波湯圓」著稱的百年老店「缸鴨狗」,也在這裡開起了分店,如今的寧波城隍廟附近一帶已經成了集娛樂、美食和購物為一體的大型商業街區,有新舊商城、美食城、工藝品一條街以及商業步行街,是寧波市民最常光顧的小吃、購物中心。
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「寧波城隍廟」附近一帶已成了集娛樂、美食和購物為一體的大型商業街區。
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現在大陸流行吃這種小龍蝦,以辣味的最受歡迎,但這種小龍蝦的衛生堪虞,要特別注意。
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入夜時分,人們衝著這裡的寧波小吃而來,就像是台灣的夜市。
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寧波百年老店「缸鴨狗」,一只水缸、一只麻鴨、一只黄狗做店名,奇特的招牌,老少皆識、顧客盈門。
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缸鴨狗的招牌甜點「寧波湯圓」,一碗人民幣五元。
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「天封塔」在寧波市海曙區大沙泥街,與城隍廟對面相望,是寧波市區最高的古代建築,也是寧波城的標誌性建築。
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by officemei | 2007-09-28 06:34 | ■浙江
ここは、中国のとあるまちのLV「直営店」、のはずですが・・・
大阪道頓堀の「かに道楽」を彷彿とさせる、ぎらぎらの看板に、LVの品格もあったもんじゃない、と感じてしまうのは私だけでしょうか・・・
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上海で味わう寧波料理。
「沈家魚頭王」
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このスープの味は最高です!
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沈家魚頭王靜安店
上海 泰興路178號瑞泰大酒店2-3樓(近吳江路)
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by officemei | 2007-09-26 19:00 | ■上海
露臂、露背、露腰、酥胸半露・・・
接下来,还有什么可露的了?
有・・・那是露股沟!

试想一个穿低腰裤的女人弯腰或下蹲时,裤腰会下拉的厉害,通常会让后背和腰部露出大半,下身内衣露在外面的比比皆是,严重一点的甚至连臀沟都会显现出来,这能算做时尚吗?

唉,时尚沦落到这地步,让人想不到。
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中国で開催中のサッカー女子W杯。
1次リーグで敗退した日本代表の“フェアプレー”が波紋を広げている。
浙江省杭州で行われた日本-ドイツ戦。
翌18日が、1931年に満州事変の発端となった柳条湖事件が発生した日という歴史的背景もあり、4万人の観客で埋まったスタンドには反日ムードが漂った。

試合前の国歌斉唱の際には指笛が響き、日本のチャンスにはブーイング。
日本選手が倒されると喝采する始末。
結局、日本は0-2で敗れ、決勝トーナメント進出を逃した。
だが、選手たちは試合終了後、「ARIGATO 謝謝 CHINA」と書かれた横断幕を掲げてスタンドに頭を下げ、ホスト国に感謝の意を示した。

インターネット上には「サッカーファンに国境はない。スポーツ精神にも国境はない」「たとえ本心でないにせよ自制心は尊敬に値する。愛国分子たちは学習すべきだ」などと、観客のマナーを問題視する意見が躍った。
国営新華社通信発行の国際情報紙「国際先駆導報」も「中国に感謝する横断幕を掲げたとき、彼女たちは情緒を超越した勇気を得た。われわれには依然としてない」「中国は健全な大国意識が必要だ。遠い未来ではなく、来年の北京五輪に顔を向ければよいのかもしれぬ。多くの日本選手が中国選手も出場する競技に参加する。その時、われわれはどう振る舞えばよいか?」などとする評論を掲載した。

もっとも、「ヤジられても感謝など同情を誘う常套手段」「横断幕を用意してくること自体、日本が単純なスポーツ大会とみていないことの証し。日本人に騙されるな」など旧態依然とした意見がはびこっているのも事実。北京五輪を来年に控え、観戦マナーの向上が求められているが、変わるのはなかなか難しそうだ。


来源:国际先驱导报  
9月17日,日本队队员在比赛后感谢球迷。
当日,2007年女足世界杯小组赛A组德国队对阵日本队的比赛在杭州黄龙体育场举行。最终德国队以2比0战胜日本队。
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无论如何,当日本女足扯出一条“感谢中国”的横幅之时,她们获得了一种超越情绪的勇气,而我们仍停留在原地

关于中国人如何看待日本的问题上,有两句话是我印象深刻的。一句是白岩松说的,“我们对日本缺乏超越情绪的勇气”。另一句大概是某报章一篇文章的标题,叫做“简单的仇恨让我们忽略了日本的‘可怕’”。

我不可遏止地想起这两句话,源于“九一八”前一天,在杭州举行的2007女足世界杯上,德国女足得到了主场般的待遇,而其对手日本女足却受尽了在场中国球迷的冷遇甚至还遭到了嘘声。然而,出乎意料的是,在比赛结束后,日本女足队员仍然向现场球迷拉出了写有中、英、日三国文字的“谢谢中国”的横幅,并深鞠一躬。

“嘘声”与“鞠躬”的较量
在对待这场日德女足的赛事上,总有人劝导:“体育的归体育,历史的归历史”。但老实说,我不对此抱多大的希望。这个世界太不纯粹了,“历史照进体育”的事情是经常会发生的。这可能是我所能理解同胞们“何以嘘之”的原因。

但是,问题在于,当中国一直以来都被日本放在显微镜下细细观察之时,对于日本人,我们到底了解多少?在受尽冷遇且在赛事失利之后,日本人反而以鞠躬在全世界面前“谢谢中国”,这已经不单单是“以德抱怨”了。

忍所不能忍者,予其莫能予者。我对此想到的唯有“可怕”二字,这,也恰恰是我们一直拒绝了解这个一衣带水邻邦的优异禀赋。下面都是一些未被遮蔽的事实:1994年广岛亚运会闭幕式结束后,6万人的体育场竟然没有发现一片垃圾。次日,全球数家报纸惊呼:“可怕”的日本民族。日本发生过一次严重的堵车,成千上万辆车首尾相连排了上百公里。然而令人震撼的是,所有的车辆都很有秩序地排在道路的一边,而另一边逆向车道空空荡荡,无人争抢。二战结束后,日本人在废墟上重建家园,迅速地跻身经济发达国家……是的,我得承认,当我在使用“可怕”这两个字的时候,我依然受到曾经的国仇家恨,或某种狭隘的民族主义情绪的支配。但是我还是必须承认,这个“可怕”真正的真相,也许就是可敬。

而一群只会以嘘声去“战斗”或“报仇”的人,永远不会是“可怕”的,更非可敬的。既便说,有些人真的以为他们是在战斗,那么“嘘声”难道就是他们的武器吗?我们民族精神和爱国情操,是可能用“嘘声”来表达或宣扬的吗?“嘘声”无论如何不可能成为武器,也许恰恰相反,一个“感谢中国”的横幅才可能是。

超越情绪面向未来
正如印度圣雄甘地说过的,“不宽容本身就是一种暴力”。历史固然不能忘却,尤其是在“九一八”之际,但与此同时,“面向未来”永远不能只是一句空话。无论如何,当日本女足扯出一条“感谢中国”的横幅之时,她们获得了一种超越情绪的勇气,而我们仍然没有。

我并不揣度日本女足到底是基于一种怎样的动机或心理,但有一点是很明显的,她们至少提醒了我们必须面对现实。活在过去的人会被过去日渐消磨,活在未来的人永远昂首向前。

中国要走向世界,要和平崛起,必不可少一种面向未来的健康的大国心态。或许,我们也不必面向多远的未来,仅仅只需要面向明年的北京奥运会。届时,会有更多的日本选手来到中国,参加包括与中国选手对垒的各种赛事。我们将会怎样?
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今日9月18日は、9・18満州事変勃発76周年にあたる。
76年前の今日、露骨なやりかたで日本軍の満州侵略が始まった・・・


日中国交回復後、大陸における戦後未帰還者(邦人)の調査拠点が在北京大使館領事部に設置された。

私は約二年間その部署に配属され、東北三省を主として、中国各地に居住する所謂「日僑」「日本孤児」の所在調査に携わった。

辺境の田舎町(戦時中の開拓団ゆかりの村々)にどれだけ多くの日本人が残留したか、当時私はその数の多さに驚き、胸を痛めた。

1945年夏、ソ連軍の満州侵攻、関東軍の無力化、多くの在満日本人は棄民と化して彷徨うことになる。

集団自決。
親が子を殺したり捨てたりせざるを得ない極限の状況。
老いた者は足手まといになることを嫌い自ら命を絶つ。
女は凌辱されることを恐れ自殺。
極度の緊張、疲労、飢餓、絶望の中で、ハルピン・新京(長春)・奉天(瀋陽)・大連を目指した。

その逃避行から、集団に遅れる者、捨てられた者、道に迷った者たちは、或いは路傍に屍を晒し、或いは現地の人に引き取られていく。
敗戦後の満州にはこのような光景が至る所で見られた。

黒龍江省はソ連と国境を接し、戦争終結時のどさくさに突如侵攻してきたソ連軍に蹂躙されることになる。

遥か黒龍江の各地から命からがらハルピンに到着するまでにどれだけの苦難を経たか、筆舌に尽し難い。
1945年8月の暑い日を、日本人たちはハルピンへ、ハルピンへと目指した。

私は嘗て、その当時の開拓団生き残りの人たちと、牡丹江から東京城に至る地域を訪れたことがある。

現地農民と旧開拓団員との交換会、宴会と続き、私は人生初の大失態を犯した。

泥酔の挙句、意識を失くし、馬車で宿泊先まで送られたらしい。翌日、激しい頭痛と吐気で目覚めたときに、昨夜の宴会途中からまったく記憶が無い事に気付く。

初秋の夜、黒龍江省の奥地、暗い田舎道を馬車が行く。
ちょっと想像しづらい情景・・・

私は、これまでも、これからも、ハルピンに訪れる機会は少ない。
私にとってのハルピンは、嘗て接した黒龍江開拓団員や日本孤児の悲惨な逃避行の目的地としての定義が強く残り、重く暗いイメージから抜け出せない・・・



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by officemei | 2007-09-18 17:21 | ■黑龍江
キタイスカヤ・・・
ロシア語で「中国人のまち」を意味する。
ハルピンの目抜き通り。
現在は中央大街と呼ぶ。

19世紀末、帝政ロシアはシベリア鉄道を敷設し南下政策を開始。
日清戦争後の遼東半島における日本の権益を三国干渉により放棄させ、東清鉄道敷設権を清朝からもぎ取った。
これによって帝政ロシアによる極東支配の拠点として、ハルピンの都市建設が始まった。

ハルピンの都市建設には多数の中国人労働者が使われた。
彼らが建築資材を積み下ろしする場所を、ロシア語で「中国人の街」を意味するキタイ・スカヤと呼ぶようになる。
現在、この通りはロシア風の街並みが色濃く残っていることにより、通りの名称とは逆に「ロシア人街」の感がある。

松花江へと延びるキタイスカヤ通り(現中央大街)、ロシア風建造物に石畳、惜しいかな、人が多すぎて情緒感に欠ける。



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by officemei | 2007-09-16 12:50 | ■黑龍江
哈爾濱華梅西餐廳・・・
創業以来80余年の歴史を誇るロシア料理店「華梅西餐廳」。

北京「馬克西姆西餐廳」、上海「紅房子西菜館」、天津「起士林大飯店」と並び、中国四大西洋料理店と称される。

1925年ロシア系ユダヤ人が、道里西八道街で開店した“馬爾斯”(マルス)という小さなロシア料理屋。
その後、場所も移動し規模も拡大され現在に至る。

ロシア料理定番のボルシチとロシアパン、ピロシキとサラダ、ビーフストロガノフを注文。
味のほどは、中国で食せる洋食としては二重丸!
(神戸で食すロシア料理と比較してはいけないが、舌がどうしてもテイストしてしまう)


哈爾濱華梅西餐廳
哈爾濱華梅西餐廳始建於一九二五年,原址在道裏西八道街,創始人是俄國猶太人,名叫“楚幾爾曼”。
華梅西餐廳原名“馬爾斯”,當時只有七十多平方米的營業面積,主要經營俄式西餐茶食小吃。

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by officemei | 2007-09-16 12:49 | ■黑龍江