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この数日、台湾では主要紙が相次いで飯島愛の死亡を報道、一面で大きく取り上げている。
TVニュースでも、生前に訪台した際(2001年)の様子などを放映した。
更に、台北市内のCD店では彼女の追悼コーナーもできているそうだ。
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彼女の死が、日本以上にトップニュースとなっているには理由がある。

かつて、1990年代の台湾に、“飯島愛現象”というべきものがあった。
ちょうど、戒厳令が解除され、民主化に向かう頃、彼女がある意味で台湾の「自由のシンボル」になっていたことがある。

「性」に対するタブーはかつての日本にもあったが、台湾においてはちょうどこの頃徐々に開放されていく。

当時、台湾の高校でも「健康教育」という教科書に性について記述された章があったが、「自分で読んでおきなさい、質問はしないように」と言った教師もいたらしい。

どこの国の男子も同じ経験を有するものだ。
それは、高校生くらいの年齢になると女体に狂おしいほどの興味を抱くことだ。

当時の台湾には「エロ本」や「洋物のポルノ映画」も密かに流通していたが、高校生からするとその種のものには道徳的な罪悪感・嫌悪感があったらしい。

そのような時代に、日本のアダルトビデオが密かに出回った。

当時の台湾の高校生や青年たちが“新鮮、驚き、快感”を感じたであろうことは充分想像できる。
古い話ではあるが、「日活ロマンポルノ」を初めて観たときの感覚と同じようなものだろうか。
といっても頷ける年齢の人は少ないだろうが・・・

で、台湾の若者たちの間では、特に飯島愛に人気が集中した。
恐らくは彼女の少女っぽい容姿が彼らに受けたのだろう。

その後、彼女の自伝「プラトニック・セックス」が台湾でも出版され、女性ファンも増えていく。
2001年、彼女の訪台時には爆発的な“飯島愛旋風”が巻き起こった。
現国民党名誉主席・連戦でさえもこの社会現象について語ったことがあるくらいだ。

AV女優から鮮やかに転身し芸能界で活躍、赤裸々に半生を綴った自伝の出版・ドラマ化・映画化。
そのような彼女を、台湾では親しみをこめて「小愛」と呼んだ・・・
合掌。


「她是台灣男人共同的情婦」
政治名嘴唐湘龍對日本AV女優市場頗有研究,昨天聽到飯島愛死亡的消息,驚訝又嘆息;他說,「台灣有數百萬男人的童貞都毀在她手裡,她也是台灣情慾被壓抑年代的見證」。

唐湘龍說,飯島愛是台灣五年級男生共同的記憶、共同的愛人、情婦。在那個禁忌的年代,健康教育課本裡那兩章性教育,是老師要我們「自己看、又不必問」的神祕課程。

於是看小本、PLAY BOY、日本AV錄影帶,就是青少年成長發育的必經之路。而飯島愛的身體,也是許多男生認識女體的活生生教材,是男女性愛的啟蒙。

飯島愛不止是台灣男五年級男生的性愛女神,也是橫跨四、六年級生的AV天后。

四年級生為了看那一段三、五分鐘不到的「插片」,可以不辭辛苦踩著一、二小時腳踏車,往郊區的小電影院裡跑;五年級選擇多了些,有一樓是冰果室,二樓就是播放閉路電視全本A片的男人天堂;六年級生就是半夜趁著家人睡著之後,偷偷看那些「關閉音量」的日本AV錄影帶、VCD。

唐湘龍表示,以前翻黃色小本、看A片都有罪惡感、都得偷偷摸摸,所以同學間只要誰手裡有飯島愛、誰就屌、誰就有權利,看完之後還要討論,分享樂趣。

至於日本AV女優新人輩出,唐湘龍認為,飯島愛在台灣人心目中的地位,已經無人可以取代,除了過去那段特殊的時代背景使然,飯島愛的情色演技逼真也是一絕,該爽、該痛、該叫的,都做到位,不像後來的小澤圓、草莓牛奶,都是在「打假炮」。

唐湘龍說,台灣不同世代心目中的AV女神可能不盡相同,但是會重疊的只有飯島愛一人。

情色天后;

東森;

民視;

三立;

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by officemei | 2008-12-27 04:45 | ■台灣
私が初めて中国の地を訪れたのは、1975年3月でした。
以来今日までに、北京・上海の生活体験以外にも多くのまちに足跡を残してきました。
記憶にあるだけでも以下のようなまちを訪れています。
直轄市~天津・重慶、内蒙古~包頭・フフホト、黒龍江省~ハルピン・牡丹江・チチハル、吉林省~四平・長春・吉林・通化・延吉、遼寧省~瀋陽・撫順・鞍山・丹東・大連(金州・旅順)、河北省~秦皇島・北戴河・張家口・承徳・廊坊・石家荘・保定・邯鄲、河南省~鄭州・洛陽・開封、山西省~大同・太原・陽泉、山東省~煙台・威海・文登・淄博・済南・青島・臨沂、陝西省~西安・咸陽・宝鶏・延安、甘粛省~蘭州、寧夏回族~銀川、四川省~成都・楽山、安徽省~合肥、湖北省~武漢・荊州・宜昌、湖南省~長沙・衡陽、江蘇省~徐州・南京・揚州・鎮江・無錫・蘇州(昆山)、江西省~南昌・九江・景徳鎮、浙江省~杭州・奉化・寧波・紹興、福建省~福州・福清・霞浦・泉州・アモイ、広東省~広州・深圳、広西壮族~南寧・桂林・陽朔、貴州省~貴陽、雲南省~昆明、海南省~海口・・・
念のため、チベットと台湾は別です。

中国は広すぎて一言では形容できません。
昔はそれでも各地のまちにそれぞれ固有の「まちの顔」がありました。
今やどこへ行っても市街地は同じ顔、どこもかしこも都市化した画一のビル・ビル・ビル。
それでも、たまにその地特有の風景事象などにめぐりあうと好奇心が満たされます。

実は風景よりも、その地の人々の面構えを観察するのを楽しみにしています。
多少なりともその地、その地の顔つきがあって興味深いものです。
もちろん顔とことばはセットで、方言も特に私の好奇心の的です。
人を観察するのは実に面白いものです。

今年(2008年)も終わりに近づきました。
「2008年中国の人々」を振り返って見たいと思います。


2007年中国の人々;

2006年中国の人々;

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イギリスの人気オーディション番組「Britain's Got Talent」は辛口審査で有名だそうだ。
この番組に、ポールという南ウエールズ出身の携帯電話セールスマンが登場する。

「さて、今日は何をやってくれるの?」
「オペラを歌います」
ポールのその容貌・雰囲気から、審査員はまったく期待していないようなそぶり。

彼が歌いだした途端、審査員も観衆も驚きと感動をもって聞き入る。
女性審査員は鳥肌が立った。

歌い終わったポールに満場拍手の嵐。

彼は勝ち抜いて、見事初代チャンピオンとなる。
その後、オペラ歌手としてアルバムを出し、来年には彼の半生を描いた映画が公開されるそうだ。

彼の名前はポール・ポッツ
ホントに映画のようなサクセスストーリー。
素晴らしい、の一言!


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このまちのことを記しておきたい。

寧波(ニンポー)。
このまちは、わが国の歴史に深い関わりを持っているにもかかわらず、ここまで足を運ぶ日本人は少ない。
上海や杭州から数時間の距離、紹興からだと指呼の間だというのに。

寧波は、唐・宋の御世には「明州」と呼ばれていた。
その明州には「市舶司」という役所があった。
今日の税関・出入国管理などをつかさどる役所のことで、明州以外に広州・泉州など数ヶ所に設置されたが、ここ明州の市舶司はほとんど日本専門と考えていい。

司馬遼太郎著「中国・江南のみち」には、
“遣唐使派遣は第一回の630年出発から終了まで264年間、回数でいえば14回、数え方によっては20回ちかくおこなわれた。当時の日本人は、航洋の民ではなかった。大海をゆく航海法を知らず、それに耐えうる構造船の造船法を知らない。ともかくも、たらいを大きくしたような構造の船で、風浪にもまれつつ往ったのである“、とある。

はるか昔、遣唐使船はこのまちを目指した。
が、無事に着いた船は幸運で、途上暴風雨に遭って沈み、或いは遠く流されていった船も多い。空海の乗った船などは福建省まで流されている。
それほどの危険を冒してまでも当時の日本人たちはこのまちを目指したのだ。

それが、時代を下って鎌倉・室町の頃には、さかんに日本の貿易船が明州を訪れるようになった。
「中国・江南のみち」にはこのような記述もある。
“遣唐使時代、ゆくさきは中国というだけで目標を一点にしぼりえず、川岸から対岸にむかって紙飛行機でもとばすような冒険的航海法からよほど進歩したといっていい。鎌倉期、さかんに貿易船が明州と九州のあいだを往来した。この時代、禅僧の留学が一種のブームのようになっていたが、道元(1200~1253)の例をみても、遣唐使時代の乗船者の不安や悲愴感などは見られず、なにやら長距離バスに乗りこむような安気ささえうかがえなくもない”。

さて、寧波のまちの中心に“三江口”というところがある。
西の余姚江、南の奉化江がここで合流し、甬江と名を変える。
この三つの河川が合するところを“三江口”という。
この地こそ、遣唐使の時代から日中往来の発着港だった。
そしてこの三江口の河岸に市舶司があった。

もう一度「中国・江南のみち」の記述に目をやると、
“河岸の河港の岸に立つと、血のさわぎをおぼえざるをえない。奈良朝末にうまれて平安初期に入唐した最澄や空海もこの河港を知っていたし、平安末から鎌倉期にかけて若い僧の入宋留学が流行したころ、日本臨済宗の祖になった栄西(1141~1215)も、この河岸に上陸し、私どもが立っている場所の土を踏んだ”、とある。

司馬遼太郎先生は寧波・三江口の河岸に立ち、先人を偲んだ。
私は、その司馬先生が歴史に思いを馳せた河岸をゆっくりと歩いてみた。
千数百年、綿々と流れるこの河を、どれだけの日本人が行き来したのだろうか・・・



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by officemei | 2008-12-25 17:40 | ■浙江
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上海はクリスマスのイルミネーション。

レストランや喫茶店ではウエイトレスがサンタの赤い帽子を着用し、まちにはクリスマスソングが流れる・・・

が、私のイメージは、ブルース・スウィング・ビッグバンド。

旧英国租界のノスタルジックな雰囲気、古き良き時代の匂い・・・

上海にはJazzがよく似合う。

“Swing Jazz in Shanghai”はこちら;




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by officemei | 2008-12-24 06:58 | ■上海
2008年12月21日は24節気の冬至だった。
冬が至る、まさにこの日寒波襲来。
瀋陽は瞬く間に零下22度!
さむ~!

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by officemei | 2008-12-22 20:25 | ■遼寧
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e0094583_10264149.gif“AraFour”意指日本“四十前后的女性”(Around40的简称),是今年日本的流行语。

该年龄层女性的未婚率较高,结婚产子后也继续工作,不同于传统日本女性的生活方式。
她们经历过日本泡沫经济时代的繁荣,目前仍对美容、文化课程等“自我投资”热情高涨。
过去40多岁的女性很少为自身消费,如今她们则成为拉动日本消费的主角而备受关注。

日本“AraFour”的女性们年轻时体验了泡沫经济带来的富足,对中意的商品舍得大笔投资。
与日本如今倾向节约的消费者相比,她们成了企业“最后的大主顾”。

这批女性中不少有自己的职业,增加了可供自由支配的金额,就连她们参加孩子学校活动的着装都豪不含糊。
比如在日本有一家进行销售邮购商品的“千趣会”,该会从06年起推出了“RASISA”品牌,选材考究款式时尚,能掩盖略显富态的体型而深受欢迎。

负责开发的经理吉冈铁也表示“40-50年龄层的衣服这么畅销在5年前完全是出乎意料”。
其中长裤的售价在1-1.5万日元(约合人民币766-1149元)是一般售价的两倍,但其顾客人数已升至7万人,销量较去年增长了30%。
电通总研的调查显示“AraFour”女性们“偏好不受年龄拘束的想法与行动”,厌倦普通的中年妇女服饰。

资生堂10月在日本推出了面向该年龄层的高级化妆品牌“REVITAL GRANAS”,广告词宣扬“献给不断成长的女性”。
过去只要向中老年顾客宣扬看上去年轻5岁便能推动销售。但积极乐观的“AraFour”更希望听到“如今的您是最完美的”。

熟悉年龄层研究的牛洼惠指出“只有肯定的宣传用语才能打动积极向上的‘AraFour’”。
常用于宣传的“抗衰老”等用词有违背自然的含义而不受欢迎。
惟有“ageless”(忘却年龄)等不受年龄左右永葆自信姿态的用词才能收到成效。

“AraFour”即使日常节俭,但若感到能够永葆青春便会大笔投资。
资生堂的这一新款在不景气的市场中一枝独秀,每瓶售价1.5万的美容液也分外畅销。

对于“AraFour”社会不乏好奇的目光。
在《男女雇佣机会均等法》出台前的女性家庭观念较重行事低调。
而“AraFour”一代经历了泡沫经济崩溃,她们踏上社会时正值就职难关,可谓历经考验。

“AraFour”人生过半但自信满满。
她们是“日本泡沫经济的化石”,或许也是日本成熟社会的“希望之星”。(共同)
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by officemei | 2008-12-19 05:23 | ■日本
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今日、中国は“改革・開放30周年”を迎えた。

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この女性、今年63歳になる。写真は淮海路の“蝶莱”写真館で撮ったものだそうだ。
その後この写真館の店頭に飾ってあったもの。

私は1975年から1978年の期間、文革終焉・改革開放路線始動の中国大転換期を北京で暮らした。
あの頃は今日のような中国を想像だにできなかった。






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30年という歳月は、日本で言えば1945年の終戦から1975年、ちょうど私が始めて北京に赴任したあの年にあたる。

日本も驚異的な変化(発展)を遂げたが、当時北京で体験した中国の様相からは、同じように、否、それ以上に中国が変化(発展)するなど考えられなかった。

それは私だけではなく、中国人ですら想像できなかったことだ。



もしあのとき(1978年)、鄧小平がいなければ、中国の改革開放は成らなかっただろう。

もしあのとき(1978年)、鄧小平が訪日していなければ、中国の改革開放はもっと遅かっただろう。

彼は日本の発展をつぶさに見て、中国の改革開放を具体的にイメージした。
まさにこの時点から始まったのだ。

改革開放30周年の今年、今更ながら鄧小平の存在を大きく感じる。
1978年~2000年
私の北京時代;

ただ一点、彼の唯一且つ最大の汚点は、天安門事件後、武力弾圧に反対した趙紫陽を解任し、江沢民を総書記へ抜擢したことだ・・・



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世界現在看中國,已經不是用三十年前的標準。

三十年前,中國發生什麼事,國際媒體都不會給你很多的版面。

但現在不一樣了,現在看你的時候,會用大國的標準來看你。

“現在中國強大了,再沒辦法避開別人對你的注視目光。

這也是件好事,證明世界已經要承認你是大國的地位了”。

然而,中國經濟實力的增強,但在國際上的“話語權”並沒有同步。

中國很多話在國際舞台上傳遞不出去,這是因為很多話沒有用上“國際語言”。

如果使用國內用語,放在國際上,人家不一定能聽懂。

過去三十年,中國主要抓經濟,所以中國在金融、經貿等經濟領域,擁有大量人才,他們都會講“世界語言”,知道講什麼話,能夠與對方溝通。

但在國際公關方面,相對來說比較滯後。

中國發展到今天,應該多講“人權、民主、法治、言論自由”,利用這些問題,在國際舞台上佔領道德的高地,佔領輿論和媒體,拿到“話語權”。

“要有做好國際公關的意識,要有第一時間在國際主流媒體先聲奪人的意識,失去第一時間,就失去‘話語權’”。

中國越是強大,就更應該謙虛,更應展現自信,顯示出大國的魅力,應該大聲地講,樂於向所有國家學習好的東西。
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e0094583_22202587.gifCSとは顧客満足度のことをいう。

如何にして顧客満足度を高めるか、そんな研修を嘗て何度も受けたことがある。
そんな昔の情景がふとよぎる・・・

それと多少関連するが、台湾国語(北京語)は耳に心地よい。
特にサービス業に携わる人たちは、「謝謝」を多用する。
大陸からやってくると、とまどいとともに嬉しい気分になってしまうのは私だけだろうか。
これもCSといえる。とにかく耳障りがいい。


中国では「~してくださいませんか」と言えば、「可以」或いは「好」と返ってくる。
これも日本語に置き換えると、「かしこまりました」とも訳せるが、音感的に親切さを感じない。
「わかった」「OK」くらいのニュアンスに聞こえ、台湾のそれと比べると超愛想無いこと。

台湾国語では、同じように「~してくださいませんか」と言えば、「好、謝謝」と言葉の終わりに必ずと言っていいほど「謝謝」がついてくる。これだと、「はい、承知しました。ありがとうございます」

相手を敬う言い方・語彙、逆にへりくだった言い方なども豊富だ。
長幼の序、上下関係による言葉の使い方も厳然と残っている。

以前このことを上海で話題にしたら、それはあなたの偏見、と言われたことがある。

そうかもしれない。
文化の相違からくる感性の問題としか言いようがないが。

台湾国語は旧い中国語、変な中国語と切り捨てる人もいる。
なんのなんの、北京語の本来有する優雅さは台湾でこそ生き、且つ当地において加工し発展してきた、と言いたい。多少、発音は訛るが。

中国ではことばの持つ優雅さを、旧い言い方と一刀両断されてしまうが、実はそんな言葉にこそ人を思いやる心が含まれているものだ。

言葉というものは相手に自分の意思を伝達させる媒体に留まらず、気持ちまでも伝えるものであるべきだ。
となると、より心のこもった言い方はどうあるべきかを考えてみる必要はある。

台湾国語は耳に心地いい。

余談;台湾の老人達が話す日本語には頭が下がる。
かつての日本語はこんなに美しい言葉だったのだ、と逆に教えられる思いだ。
時の変遷とともに言葉は変わっていく。繊細な言葉はおおまかな言葉に圧倒される。
日本語も、中国語も・・・
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by officemei | 2008-12-18 18:55 | ■中国語
僧は素を食し、肉は摂らない。
殺生をしてはならないのだ。
戒律を犯せば破戒僧。
とあるケンタッキーでの修行僧。
フライドチキンを食っている。
けっこううまそうに・・・
布施を目当てのニセ坊主もいる。
如何せん、俗世間は刺激的。

(在肯德基吃炸鸡的花和尚)
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