■北京大柵欄
前門とは正陽門の別称だが、この前門のさらに南側に、五百年も昔からの商店街が広がる。
この一帯には老舗が多く、北京市民はここを「前門外」と呼んで親しんでいる。
2009年現在の前門外;
1975年の前門外;
「前門外」でも特に老舗が多いのは「大柵欄」と呼ばれる300m足らずの通り。
その昔(明朝・清朝の頃)には、この通りの入口に大きな柵があり、夜になって商店が店を閉じると、治安のためにこの大きな柵も閉められたそうだ。既に柵も姿を消して久しいが、「大柵欄」という地名は残った。
「大柵欄」はかつて皇帝が紫禁城から天壇に五穀豊穣を祈りに行くとき、駕籠で通った前門大街の西側にあるが、この通りを渡った東側も商店街で、北京ダックの老舗「全聚徳」(創業、清の同治3年=1864年)など、料理屋が軒をつらねる。
「したたかなバイタリティーが感じられる街。王府井を銀座とすれば、大柵欄は浅草、大阪でいえば、心斎橋にたいする道頓堀といったかんじ」と作家・陳舜臣氏は書いている。
「大柵欄」の柵という字は中国語ではzhaと発音する。台北に「木柵」という地名があるがこれなどもmu-zhaと読む。
が、北京の「大柵欄」は「大石烂儿」=「大栅栏儿」(dàshílànr)というふうにshiと発音する。
そもそもこの一帯は明の永楽年間から始まり、清朝末期には北京の一大歓楽街として賑わいを呈した。
雑多で胡散臭い雰囲気の中、庶民は娯楽に買物にこぞって押し寄せ活気に満ちていたらしい。
1970年代後半、北京に暮らした私は休日にはあちこちを探索に出かけたものだが、あのまだまだ暗い世相のなか、物資も少ないながら「大柵欄」には人が溢れていた。
1977年北京在勤当時の大柵欄;
昨年(2008年)のオリンピックの前、都市再開発によって「大柵欄」は一新し再び蘇ったものの、あの何とも言えない胡散臭い面影は失せてしまって残念至極だ。
現在の大柵欄は歩行者天国となって大小100余りの店が軒を並べている。
そんな古い歴史を有する「大柵欄」でも特に由緒ある老舗を記しておきたい。
写真は2006年撮影のもの。
その後、古い街並みは取り壊された。
六必居醤園;
老舗が軒を連ねる「大柵欄」一帯でも、暖簾のいちばん古い店は、明の嘉靖9年(1530年)創業の漬けもの屋「六必居」だ。
漬けものを入れた骨董品のような壺がずらりと並ぶ店内のすみずみにまで醤油や味噌の香りがしみ込んでいて、歴史の重みを感じさせる。
「六必居」という店名は、そもそも庶民の日常生活に欠かせない7つの物資(柴・米・油・塩・酢・醤油・茶)のうち、茶を除いた6つの商品を販売したことによる。
特にこの店の漬けもの(稀黄酱、铺淋酱油、甜酱萝卜、甜酱黄瓜、甜酱甘螺、甜酱黑菜、甜酱仓瓜、甜酱姜芽、甜酱八宝荣、甜酱什香菜、甜酱瓜、白糖蒜)
は有名で北京っ子で知らない者はいない。
はたして今もその味は変わらず愛されているのだろうか?
次の写真は1980年代初頭;
瑞蚨祥;
かつて北京っ子(老北京)の間でよく流行ったフレーズ(顺口溜)がある。
“头戴马聚源,身穿瑞蚨祥,脚登内联陞・・・”
「马聚源」で買った帽子を被り、「瑞蚨祥」でオーダーメードした服を着て、
「内联陞」の靴を履き・・・
この「瑞蚨祥」という店は清の光緒19年(1893年)創業という老舗の生地仕立て服店。1949年、中華人民共和国建国式典で天安門に翻った国旗は「瑞蚨祥」の生地で作られた。
店名の「瑞蚨祥」、瑞祥はおめでたいことを指す言葉だが、その真ん中に「蚨」という字がある。これは“青蚨”と呼ぶ蝉より多少大きめの虫のことで実在しない伝説上の虫。金銭に恵まれ裕福になる(青蚨还钱)と淮南子や捜神記にあり、顧客に幸せを供し店は財を成すという意味らしい。
特に、この店で作られたオーダーメイドの旗袍(チーパオ)は有名だった。
張一元茶庄;
清の光緒34年(1908年)創業の茶舗。
店内に茶の香が満ちていた。
内联陞;
清の咸豊3年(1853年)創業の靴屋。
そもそもは宮廷での朝見用に履く布靴などを作っていたそうだ。清朝のラストエンペラー宣統帝・溥儀が即位のときに履いた礼装の「龍靴」もここで作ったもの。
新中国誕生後、履き心地のよい「内联陞」の布靴は、毛沢東はじめ中国共産党の指導者からも愛用された。
同仁堂;
清の康煕8年(1669年)創業の老舗漢方薬舗で、もとは宮廷御用達の店だった。
とりわけ西太后は「同仁堂」の大ファンで、婦人病の妙薬である「同仁堂」特製「烏鶏白鳳丸」を愛用していた。店に入ると、漢方薬特有の匂いが漂う。
現在では中国各地のチェーン店と海外拠点を設け、中国を代表する世界的なブランド漢方薬として認知されている。
その総本家がここだ。
ちなみにTVドラマ「大宅門」や「大清薬王」は“同仁堂”を描いた物語でもある。