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■台湾 底辺の外省人

■台湾 底辺の外省人_e0094583_10101281.jpg「微熱の島 台湾」(岸本葉子著)は、非常に読み応えある内容で、台湾を旅した一人の女性が、庶民との心の交流を重ねながら台湾の置かれている微妙な立場を自分なりに考え、庶民の心のうちをすくいとる。

もう10数年前の出版なので、現在の台湾とは内容に多少の変化があるが。

文中に、ある外省人との出会いが描写されていたのが心に残った。
そのくだりを抜粋してみたい。

外省人の専横、本省人の辛い歩みは確かに今日の台湾で語ることができるようになったが、反面、権力を持たない底辺の外省人の悲哀も存在することを覚えておきたい。
以下抜粋。 





台東から山を越えて、台南に抜ける南部横貫公路。
雨続きで今日もたぶん通れないだろうと言いながら、私と山の中へ運ぶ荷物とを乗せてバスは出発したのだけれど、霧のためにやはり通れず、今またここへ引き返してきた。

関山のバスの駅。
だいじょうぶ?と聞かれたのは、途中路肩のくずれたところにタイヤが落ち込み、ちゃんと座っていなかった私は座席から大きく放り出され、額にこぶをつくったから。

大丈夫と答えたものの、カメラもこわれなんとなく心細くなった私は、こぶもカメラもすぐになおすところのある大きなまち、高雄へ早く行こうと決めたのだ。

乗り換え地の関山でバスを下りると、がらんとしたバスの駅。
バスが発着する用のちょっとした広場や、並んで待つための鉄柵やコンクリートの屋根はあるものの、屋根を支える柱にも鉄柵にも、普通ならにぎやかなくらい貼られている広告や行き先表示の札が、ひとつもない。

人のいる色合いを失くした、コンクリートの色一色。
はがし忘れたのかただひとつ、青と赤の国旗のマークの入った「スパイの告発はみんなの責任です。奨金いくらいくら」の掲示が、ぽつんと柱に残っている。

八ヶ月前の五月は、人がいた。
台東から台南へ行く路線バスはこの駅でひと休みし、汗ばむ季節であったので、運転手さんはふうふう帽子で顔をあおぎ、車掌さんはジュースを買いに走り、扇子を使うご老人や、つば広の帽子の下でまぶしげに顔をしかめる夫婦連れなどで、暑いながらもにぎやかだった。

外はかえって暑いというので、事務室の中でお茶を飲んだ。
そのときはじめて、台湾の茶器というのを見た。おちょこのように小さい湯呑みがめずらしくて、写真を撮っては、「なんでそんなもの撮るんだ」と笑われた。

今、その事務室は、と三分の一ほど開いたドアから覗いてみると。
ひとりの老人がいた。

紺のジャージの上下を着て、ストーブにあたる人のような恰好で、茶器を前に坐っている。
すっかり変わっていた、事務室の中は、あのとき室内を狭く見せてたソデ机もロッカーダンスも、壁ににぎやかに掛けてあった帽子も呼び子もカレンダーもなく、むき出しの床の隅に、色の変わった空のファイルや古雑誌が無造作に寄せてある。

ただひとつ変わらずにあったのは、部屋のまん中の電熱器の上でしるしると音を立てているヤカンと茶器だけなのだ。

「どこへ行くの?」老人が訊く。
「高雄まで」
「高雄。なら、十一分発のバスがある」
「十一分」
「夕方四時頃には高雄へ着くだろう。それまで、少し坐って、お茶を飲んでいきなさい」
「はい」

ジャージの首に下げている呼び子でかろうじて、公路局の人だとわかった。
このバス駅はまもなく廃止になることになっていて、事務関係のものはすべてもう台東に移したという。老人もあと数日でここを去り、来月からは高雄に近い楓港のバス駅勤務になるという.。

「ひとりで来たの?」
「はい」
「家の人は、いっしょに来なかったの?」
「ひとりで来ました」
「さびしいだろうに」

台湾では、よくそう言われる。ひとりで過ごすということを、ここではあまりしないんだろうか。

「話し相手もなくて、ご飯食べるのもひとりで、さびしいだろうに」
「だいじょうぶ」
「結婚は、してるの?」
「いえ」
「まだ」
「はい」
「早くした方がいい。女の子がひとりは、とくによくない。結婚して、そうしていっしょに来たら、いちばんいい」
「そうですね」
「どうも、台湾の人ではないようだが」
「日本人です」
「そう。よそから来てひとりは、余計さびしいだろう」

そんなふうに繰り返すのも、台湾の人はひとりで旅しないことの表れかと思って、聞いていたのだが。

「自分も台湾の人ではないんだ」
「?」
「自分は大陸から来た。民国三十八年に来て、もう四十年になる。軍人として来たけれど、もう退役して、ここで働いている」
「そう。でも大陸へは行けるようになったでしょう」
「なった。でも、公路局は公務員だから、行けない。自分は五十八だから、あと二年ある。二年したら、行けることは行けるが」
「大陸に、親戚の方はいるんですか」
「わからない、いるんだかもういないんだか」
「・・・・・」

胸の前に持っていた湯呑みの上に、目を下ろした。その答えは、少なくない大陸へ行った人から聞いた答えの中で、私をいちばん静かなところではっとさせるものだったと思う。

「こっちに来て、四十年。その間、手紙を出す方法もなかった。いるんだか、いないんだか、今はもうわからない。昔の家は、もうないと思う。この先、手紙を出してよくなったとしても、どこに出したらいいか」

答えられる問いかと思っていた。
いるか、いないかだけは、いると知ってて、会いたい、会えない、そういうことかと思っていた。
四十年という時間が、いるかいないかまで答えられなくしてしまうとは、思ってもみなかった。

「自分は今、台湾にひとりだ。大陸を離れたのは十九のとき。そのとき結婚していた。昔は結婚するのが早かったから。十八で結婚して、四ヵ月後、軍隊といっしょにこっちに来た。妻は今、生きているのかいないのか。わからない。生きていても、あのあときっと、自分の家に帰ったと思う。そのままひとりで残るには、彼女もうんと若かったから。十八に、なったばっかりだったと思う。あんたは、いくつだ」
「二十七です」
「そう、早く結婚したほうがいい。自分がそのあと四十年間結婚しないできたのは、いつ大陸に帰れるかわからなかったからだ。そうだろう?いつ、帰れるかも知れない。そのときこっちに妻がいたら、向こうにも妻、妻が二人になってしまう、そうだろう?待っているかも知れない、いないかも知れない、帰らないといけない、けれども連れてくわけにはいかない。それはできないこと、そうだろう?」
「・・・・・」

なぜ結婚しないのかと思ってた。
けれど今は、そうだったのかと思う。
三十八年ぶりに「開放了」され、開放ムードにわく探親。けれども三十八年ぶりというのは、「開放了」したあとからの言い方に過ぎない。

三十八年とはじめからわかっているなら、待つこともできればあきらめることも人はできる。
けれどもこの人たちにとってはそうではない。
もしかしたら明日にも帰れるかも知れない、そのまた明日こそは帰れることになるかも知れない、そうした明日の、かくもながき延期としての三十八年であったのだ。
by officemei | 2008-10-01 08:56 | ■台灣